ケッ、なんで新しい水着なんか買わなきゃならねーんだよ!
俺は不機嫌だった。
妻と娘が水着売り場に旅立ったあと、ショッピングモール特有の『柱のそばのベンチ』で一人すわってふてくされている。
休日だけあってあたりには幸せそうな家族連れがたくさんいた。
こういうところで一人でいると、俺はこれまでの人生を思い出してしまう。幸福なことなどなく、与えられたと思えばそれはさらなる不幸の前振りでしかなかった、そういう報われなかった百万回の人生だ。
最近は『ひょっとして俺は百万回転生したと思いこんでいるだけの人なのではないか?』と疑うことも増えてきた。
あるいは、本当に夢だったのかもしれない。今の俺に、俺の記憶を『実際にあったことだ』と証明する手段はなに一つないのだから……
しかしこうして一人で座って幸せそうな人たちを見ていると確信する。
俺の百万回転生は夢などではなかった。
百万回の『報われない人生』はたしかにあったのだ。そこで得たものも失ったものも、今の俺を構成する要素となっている。
立方体ではない……俺は、俺をかたちづくる百万回の過去が、俺をトゲトゲしい不安定な形状にゆがめているのを強く感じていた。
だって、俺は『生ききる』ことを目標にしているのに。そのためには他者にかかずらわっている余裕なんかないっていうのに。こうも、幸せそうな人たちを見て、気分が悪くなる。
具体的には――男児が憎い。
クソッ! どいつもこいつも幸せそうにしやがって! 男児はな……男児はな、成長すれば俺の娘を奪っていくかもしれないんだ……五歳程度の幼児だって娘をデートに誘ってくるんだぞ……
だが、俺はここで『滅べ』と軽々に思うことができなくなっている自分に気づいた。
男児には人生があるのだった。いや、それだけではない。彼らには親がいるのだった。そしてたぶん、教師や保育士もいるのだった。
男児どもはもうとっくに世界の一員で、それをとりまく環境が、すでにある。
男児らが滅びた時の男児ども自身の無念さ、親の悲痛、教師の悲哀を思えば、俺はもう個人的感情だけで他者の不幸を願うことさえできなくなっている……
不幸を願うのは犯罪ではない。
願うだけなら軋轢も生まない。
誰だって人生で一度ぐらいは『コイツムカつく。ウンコ踏め』と思ったことはあるはずだし、そう思う自由は誰にだってある。
だというのに、俺はもう、思うだけで罪の意識を覚えるようになってしまっている。
きっと百万回転生のせいだろう。
俺の記憶に蓄積しているのは、『生きたくても生きられなかった想い』なのだった。
軽々に『滅びろ』と願ってしまって、もし本当に滅びてしまったら、俺は滅びた者たちの無念を想って心が砕け散ると予感しているのだ。
俺は知っている。『今、突然、隕石が降ってきて、あたり一帯の人が死ぬ』というのが、奇跡と呼ぶにはあまりにありふれた理不尽であることを。
世界はいつなんどき、理不尽な鉄槌を下してくるかわからない。
その鉄槌の呼び水が、『たった一人の男が、心の中でほんの一瞬だけ描いた願い』でない保証なんかどこにもないのだ。
俺は深呼吸をして、心を落ち着ける。
そうだ、娘はいずれ飛び立つもの……わかっている。わかって、それを受け入れる心の準備もしたはずだ。
しかし『心の準備を一度した。だからもう迷わない』というほど、俺の心は――あるいは人間の心は、強くないらしかった。
強くない俺には、安心が必要だ。
どうすれば安心できるんだろう? あんなに嬉しそうにルカくんとのデートを待ち望む娘の様子を見せつけられて、デートのための水着までねだられた父親として、いったいどうしたら安心を得られるのか……
妻と娘がこちらに来る姿が見えた。俺は考える。俺を安心させるものはなにか。まやかしでもいい。安心なんかしょせんは幻想だ。どうすれば幻想にひたれるのか、俺は考えて考えて、そうして、近くに来た娘に言った。
今日買った水着を着た姿は――一番最初に、パパに見せてね。
娘はきょとんとした。
妻から「なんか変態っぽいからダメ」と言われた。
俺はニヒルに笑って立ち上がる。
見上げたショッピングモールの天井は高く、幸福そうな人々の声は、どこか遠く――