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『汀にて』

 ガラス張りの天井から夏日が射し込み、額と首筋に汗が滲んだ。


 程よく身体も温まり、ストレッチ運動を始める。腱を伸ばし、身体を捻った。目の前を児童がぱたぱたと駆けて行き、その母親らしき女性が注意しながら後を追う。


 夏日のプールサイドは賑わっており、トピックは多岐に渡る。泳ぎ続ける若者、少し休憩を取る老人、はしゃぎ回る児童。すべてに夏の一日いちじつのドラマがあり、そこにはそれぞれの人生がある。


 監視員の鳴らす笛が響き渡った。


 水中に居た者たちはプールから上がり始める。プールサイドにざわざわと人が増え、お喋りや水分補給に勤しむ者も居た。


 適度なストレッチを終え、この休憩時間が終わったら泳ごうと決めた。


 ここは温水式の大型プールだ。新築だという事もあり、今日のような酷暑の日には賑やかになる。


 青々としたプールの水面みなもが揺れている。


 休憩中の、誰も浴していない大量の水には常に迫力を感じる。それは人間が胎児であった頃、羊水に浸かっていた事と何か関係があるのだろうか。


 ――唐突に。


 周囲のざわめきが遠ざかって聞こえ、自身の思案の声が大きくなった。


 目を閉じて視界をシャットアウトする。


 真っ暗だが暑い。暑いが真っ暗だ。


 プールサイドで孤立している自分にかかる孤独。


 休憩時間がやけに長く感じる。


 ――ふと。


 世界が、ぐらりと暗転したような気がした。


 咄嗟に熱中症を警戒したが、ぐらりとしたのは一瞬だけだった。


 目を開ける。


 同時に監視員が休憩終了の合図である笛を鳴らし、プールサイドの人々が次々に水に浸かり始める。


 ――だが。


 不思議と、自分も人々の後に続こうという気は起きなかった。


 彼等彼女等の後に続いてはいけないという確信があった。


 何なのだろう。


 一命をとりとめた時のような逼迫した感覚が、心臓を握っていた。


 夏日は燦々とガラス張りの天井に輝き、バシャバシャとした水音や嬌声は響き渡っているのだが――。


 ――すべてが。


 嘘臭かった。


 作り物めいており、透明なフィルターを介したような見世物感があった。


 ただ、それを眺める。


 プールサイドに居るのは自分一人であり、監視員も何時しか姿を消していた。


 コンクリートのプールサイドに、一人。


 そして水中に居る多数の人間。


 人々の顔が遠ざかって――ぼんやりとして、見えない。


 視軸を彼方に遣ってみる。


 プールの果てが見えなかった。向こう側はどこまでも続いており、灰色のコンクリートの壁は暗灰色の空となって無限に広がっている。


 ――やがて。


 ぼーっと、何かの音が響き渡った。


 それは船の汽笛の音と、とても似ていた――いや。それは巨大な船の、汽笛の音だった。


 プールの向こう、暗灰色の彼方から巨大な影がゆっくりと近づいてくる。


 ぼーっと、また汽笛が鳴った。


 いつの間にか、水中の人々は泳ぐのを止め、全員が船の方を向いて立っていた。こちらには背中を向け、顔を失っていた。


 巨大な影は、その輪郭がぼんやりと分かる程に近づいてきた。


 ぼーっ。


 ぼーっ。


 汽笛が連続して鳴る。


 異界――異海から響くその音は、何かの合図のように低く響く。


 巨大な影は、客船だった。


 そのシルエットが理解できた時、プールに浸かっている人々は一斉にそちらへと泳ぎ始める。不思議と静かだった。肉体の質量を感じさせなかった。


 その葬送めいた景色を見ている間、酷く喉が乾いていた。


 そして只々、人が居なくなったプールサイドで唾を飲み込む。みんな、行ってしまったな。そんな事を考えながら。



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