すべてが逆さまになってしまえば良いのに。
そう考えるに至る根拠はぼんやりとはしているが、わたしの中に強く根付いている。
今夜はスーパームーンだ。
あの月と、夜空と地上が逆さまになってしまえば、わたしの中の灰色に汚れた何かも逆さまになってしまうのだろうか。
――きっと。
そうなる。
月見の席に今、わたしたちは居る。わたしと、遠い街から来た誰かと、織物を生業としている誰かに、生食を禁じられている誰か。
四人で月を見上げ、ただ静寂に身を委ねている。
わたしがすべて逆さまになってしまえと願っているのと同様、他の三人も願いや祈りを込めて月を見上げているのだろう。スーパームーン。月の魔力が一番高まるこの日に。この日のために、わたしたちは集まったのだから。
やがて一人が沈黙を破る。
「月は美しいな」
続いて誰かが言う。
「月はとても醜い」
そして言葉は連なる。
「それでも月は在る」
わたしが言う。
「月もいつか夜空から消える」
夜天を見上げたままの言葉の応酬。否。応酬というよりはそれぞれの独り言。祈りのようで、呪詛めいているその言葉は夜気に染み入って、消える。
わたしたちは、人生の果てに今ここに居る。
それぞれが月下で何を思い、何を行なってきたか、訊いてはいないし、訊くつもりもない。ただ、今、ここに居るという事。それだけが重要なのだ。
だが、わたしの十九年の生涯の中には、常に月があった。月と共に生き――否、月の下でしか生きられなかった。夜の領域の囚人。月が照らさなければ、わたしはとうに地獄に彷徨っていた。
月に囚われていたのではなく、わたしは月に護られていたのだ。ずっとそう思い、苦しい人生を生きてきた。
――だから。
今、すべてが逆さまになってしまえと月に願っている。
夜の中心はあの月だけで良い。
しかしすべてが逆さまになってしまうと、あの月もまた墜ちてしまうのだろうか。
わたしの思索をよそに、四人の沈黙は続く。
そして、沈黙と思索は具現化する。
それは月の魔力、引力。月の裏側に隠されている秘密の成せる脅威。
やがて月から何か――何かが、降りてくる。
点にしか見えなかったそれは、降りてくるに連れて徐々に輪郭をはっきりさせていった。
「戦友が帰ってきた」
「若かりし頃の妻だ」
「猫の馬車だ」
わたしを除いた三人が次々にそう言う。
自分の見えた通りにそう言う。
――だが。
わたしには、その輪郭の意味する姿が、よく判らなかった。
――あれは。
何なのだろう。
とても有機的で、しかし無機質だ。
わたしが今まで見た事がなく、それでいてとても願っていたもの。
わたしがずっと望んでいて、そして憎んでいたもの。
――それは。
あんなにグロテスクで――美しい形態を取っているのだろうか。
すべてを逆さまにする月からの御使い。或いは――わたしの願いと、逆さまのもの。
すべてが逆さまになるという事は、わたしの願いですらも逆さまになるという事。すべてが逆さまになってしまえという願いを逆さまにするため、あれが月から降りてきたのだろうか。
わたしを除いた三人はそれぞれの、それぞれが見えているものを祈るように見ている。それは戦友であり、妻であり、馬車なのだろう。わたしはただ、降りてくるグロテスクで美しい何かを受容するべく、全身に緊張を走らせている。
――すべて、逆さまになってしまえば良いのに。
これは、わたしが強く望んだ事だ。
だから、スーパームーンは逆さまなものを、逆さまになるようにわたしに贈ってきた。それを受容したわたしはきっと裏返るし、裏返るだけでは終わらないだろう。わたしが逆さまになるという事は、わたしに見えている世界も逆さまになるという事でもある。どこからどこまでが逆さまで、どこからどこまでが正調なのか。今宵集まった、わたしを除く三人にスーパームーンから贈られてきたものも逆さまになってしまうのだろうか。少しだけ申し訳ない気持ちになったが、それももう、逆さまになる。