鈴木と2年半ぶりの再会を果たしてから2か月が経ち、半期決算も終わった10月半ばに早苗の部門にいた早川が定年退職することになった。早苗が入社した時からお世話になっていた人で、小柄で白髪のたれ目。旅行に行くとお土産をくれたしお菓子の差し入れをしてくれるおじいちゃんのような人だった。
いつもにこやかで安心感のある早川は、社内からの人望も厚かったため少人数でやるはずの送別会は20人以上の大所帯となった。
「早川さん、お世話になりました。今ここにいれるのも早川さんのおかげです。」
「いやー楠木さんは気配り上手で真面目だから僕のおかげじゃないですよ。楠木さんの人柄です。」
「そんな……まだまだです。」
「そういえば……」
早川は辺りを見渡して近くに誰もいないことを確認したうえで早苗に近寄り小声で言った。
「鈴木君とはどうですか?」
「……え?」
「あ、誰にも言っていませんし僕の勝手な想像です。違っていたら忘れてください。」
「気が付いていたんですか?」
他の人なら誤魔化しただろうが、早川のことは信頼していたので素直に打ち明けることにした。
「ふふふ、年寄りの勘ってやつですかね。仕事熱心でお互いを尊重しあっていて素敵だと思っていました。一時期、楠木さん元気がない時もありましたが夏くらいから変わったなと思いましてね」
周りに悟られないように気を付けていたはずだったが、早川にはお見通しだったようだ。
「すみません……。」
「そんなことないですよ、羨ましくもあり微笑ましく見ていました。お幸せに」
……。本当はもう別れているのだが伝えた方がいいのか迷っているうちに他の人の存在に気がつき早川は去って行った。
『尊重しあっているかぁ……確かに、お互いの事を思っている。私も鈴木のことを考えるし、鈴木も私のことを考えてくれている……。今の変わらないはずなのに、なぜかもう付き合ってはいないんだよな。』
哀しみはなくなっていたが、上手くいかないこの関係がもどかしかった。目の前にあったお茶割りはグラスに水滴がたくさんつき上が水っぽくなっていた。
グラスを回し、カランカランと音を立てながら箸で混ぜてから飲む。
味が薄くなったお茶割りは、あの時ホテルで飲んだホットコーヒーの味に似ているな。そんなことを思い出し苦い気分になりながら、一気に飲み干しお代わりを頼んだ。
早川の後任は滝という男性社員だった。年は29歳で茶髪にゆるくパーマをかけており、早苗の会社にはいないタイプだったので入社前に挨拶に来た時は驚いた。
前職がネット販売の営業で見た目も厳しくなかったそうで、同じ気持ちでいたら堅真面目そうな人ばかりで焦ったと後になって本人から聞いた。
入社初日は、初めてあった時よりもやや暗めの色に染めなおしており一安心した。
早川から一連の流れを引き継いではいるが、退任後のサポート役として早苗が滝の面倒を見ることになった。早川の話では、覚えが早く要領がいいので心配することはないと聞いていたので業務で困ることはなさそうだ。
早苗は、総務部の在籍歴では長いが年齢的には一番下だった。早川がきたことで下から二番目になったが、それでも周りは早苗より15歳以上年上や家庭がある人ばかりだったため雑用を頼まれることも多い。滝に教えるという名目で会議の準備や受付など自席以外で二人で業務をすることも増えていった。
早川の言う通り、滝は仕事の覚えが早かった。そして前職が営業だけあって、コミュニケーションスキルも高く、すぐに周りと打ち解けた。分からないことは即座に聞き、自分では難しいと判断すると一部を手伝ってほしいと頼むことにも長けていた。早川が言っていた要領がいいと言っていたことを思い出し、妙に納得した。
『早川さんが言っていた通りの人かも…』
しかし、滝の依頼も単にずる賢いだけではなく本来は担当がやった方が効率的だったが何かと言い分をつけて押し付けられていた内容だったので言い分は正しい。
中途入社したばかりで分からない、助けてほしいという滝から、嫌味な感じは一切なく正論で尋ねられ今後は自分でやると引き取ってくれた。
滝のおかげで今まで効率悪いと思いながらも渋々引き受けていた業務が改善され、早苗は『
おかしい部分は相手を嫌な気分にせずに諭すことに長けている。』と少し見直した。
ある日、会議室で明日の役員会議の準備を滝と二人でしていた時のことだった。
「楠木さんって彼氏いるんですか?」と突然、聞かれた。
「いないけど……」
この手の質問はセクハラと訴える人もいるので最近は社内では控えている人も多い。そのため、久々に聞かれて少し動揺した。しかし、滝は気にすることなく続ける。
「それじゃ、結婚を考えた人っています?」
「…………いないけど。」
一瞬、鈴木の顔が浮かんだが具体的な話はしていない。それどころか実質的に顔を合わせた交際期間は1か月だ。
「楠木さん、男性に興味がないんですか?」
「…………。滝さんって失礼だよね。この話題、セクハラだと思う人もいるから気を付けた方がいいよ」早苗は一呼吸をして落ち着かせてから言った。
「はい、楠木さんなら訴えないと思って聞きました。大丈夫です。危ない人には話しかけません」
「……そう。滝さんはどうなの?」
なんだか滝のペースに飲み込まれている気がして、慌てて滝自身の話へと変えた。
「僕ですか?僕には、付き合って4年の彼女がいます。その彼女と結婚する予定で話をすすめています。」
その後、滝は自分のことを包み隠さず教えてくれた。
彼女は3個下の26歳。前職が同じで彼女が新入社員で入ってきてすぐに付き合ったことや、交際後に彼女は別の会社に転職をし、正社員で働いていること。そして滝自身が転職した理由は、営業職で土日も仕事で夜遅くなることが多かったそうだ。
お互い地方出身で周りに頼る人がいないため、今後結婚して子育てする際に彼女一人の負担が多くなってしまうことを避けるため土日休みの内勤を希望したそうだ。
『思ったよりしっかりした人で考えているんだな……』
最初の印象が強かったため、軽い人かと警戒していたが仕事をしていくうちに滝の印象はいい方へと変わっていった。
「僕、滝孝太郎っていうんですよ。あの有名な音楽家と一文字違いなんです。彼女にはこうちゃんとかこうたって呼ばれています。」
「……そうなんだ。」
呼び名の情報はどうでも良かったが、音楽家と一文字違いということよりもこうたと言う響きに早苗は反応した。
『この人もこうたって呼ばれているんだ……。」
鈴木とはタイプが全く違う「こうた」
「こうた……。」早苗は滝に聞かれないように小さく呟いた。