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第1章第9話

「社長……」

 桜色の包装紙に、金色の細いリボン。中身は、ハンカチだと思う。

「開けろってこと……だよね」

 そっと包みを開いた。大判のハンカチ。淡いオレンジ色を基調として、薄い黄色やピンク色が、空からの光のように柔らかく溶け込んでいる。

「エスパーなのかな……」

 彼のおかげで私の胸の奥に灯った明かり。それが、ちょうどこんな色。

 ああ、もう。かわいすぎて、どうにかなりそう。これを早く見つけてほしくて、何度もじーっと見てたんだ。暖房をかけて待っているのは本当だろうけど、「離れるな」と繰り返すくせに先に行ったのは。コートを着るように言ったのは。

 走るなと言われたけど、走った。早く、顔が見たい。ありがとうって言いたい。


 車を見つけて駆け寄ると、運転席の彼が眉を顰めた。走ったからだと思う。もらったハンカチを掲げてみせると、ちょっと笑って視線を逸らした。照れてるんだろうか。

 ドアを開けると、暖かい空気が流れ出した。暖房の効果が薄れないように、素早く乗り込む。

「お待たせしました。……これ、ありがとうございます」

「嫌いな柄でないといいが」

 私がシートベルトをしたのを確認すると、早口で言って発進した。やっぱり照れてる。

「この色、とっても好きです。でも、いつの間に?」

 地上が近付き、進行方向が明るくなってきた。

「昨夜、部屋に連れていったあとだ。下に用があってな。その時、目にとまった」

 じゃあ、私が眠っている間に、コートのポケットに入れたんだ。今朝見た時は、コートはクローゼットにきちんとおさまっていた。

 車は駐車場を出て、朝日の中を走り始めた。

「私が今日、別のコートを選んでいたら?」

「『昨日のも似会ってた。着て見せてくれ』とでも言うかな」

 クスクスと、笑い声が漏れる。彼といると、笑おうと努力しなくても笑顔になれる。

「社長って……かわいい、って言われませんか」

「俺が?」

 彼は心の底からおもしろそうに笑った。

「ないな。子供の頃は別として……そういうのは封印しているつもりだった」

「社長になったから、ですか?」

「それもある」

「封印ですか……」

 似ているな、と思った。あの映画を観た頃に会社のトップになり、年商を大きく伸ばして、戦い続けてきた人。厳しい面を見せる時の方が多かったのかもしれない。

 同じ頃、私は十代から二十代へ。彼と事情は違うけど、ひとつ何か起こるたび、何かを諦めて……惜しむ前に手放してきた気がする。どうせいなくなってしまう、物だってなくなってしまう。戻ってきてほしい、取り戻したいなんて、考えちゃいけない。前へ進まなきゃ、って。我ながらかわいくないくらい、冷めていた。

 なのに社長は、「生き生きとした表情」と言ってくれた。

 私は社長を、かわいいと感じている。

「静かだな。寒いか?」

「あ、いえ。大丈夫です。昨日から、びっくりすることや嬉しいことが続いてるなって」

「びっくりか」

「それは……そうですよ。いろいろと」

 再就職、初めての夜、映画のこと。ひとつひとつの出来事の中には、さらに、防弾チョッキなんていう物騒な言葉や、甘美なおののき、砂糖のように溶けそうな瞬間などが詰まっている。

「いろいろか」

「はい」

「いろいろな」

「……そうですっ。いろいろありすぎて人生変わっちゃいましたっ」

 だからそれ以上仄めかさないでくださいっ。

「まあ、それは俺も同じなんだが」

「え?」

 フッと綺麗な笑みを向けられて、心臓が跳ねた。こういうのは、防弾チョッキじゃなくて、何が効くんだろう。


 信号をいくつか過ぎたところで、社長は改まった口調になった。

「それで、と。これから取引先に紹介してまわるが、その前にもう一度聞いておきたい」

「はい。何でしょう?」

 祝日が関係のない業種もあるから、そこを何社かまわるんだろうな。スケジュールが詰まってるって言ってたけど、私の挨拶まわりに費やして、大丈夫なんだろうか。

「俺との関係だ。どう認識してる」

「専任秘書……ですよね?」

 部屋でのやり取りを思い浮かべてみたけど、私にはほかに言いようがない。

「明田のやつ……」

 呟いたのは、私に辞令を渡してくれた部長の名前。

「辞令を見せてみろ」

「え?」

「早く」

「あ、はいっ」

 大事な書類は、昨日ブティックで着替えたあとも持ってきてる。バッグから出して広げると、彼は文面を見て苦笑した。

「やってくれる……」

 次の信号が赤になった。彼は、停止している間に私の手から辞令を奪い、さらさらと何かを書き足し、ポンとハンコを押してから返して寄越した。一連の動作に驚いたのと、何をしても優雅だななんて見とれて、反応が遅れた。目を疑う言葉。読み上げずにはいられない。

「専任秘書兼……婚約者?」

 車が発進した。社長は楽しそうに、私を横目で見ている。いたずらっぽい瞳と辞令を見比べて、思い至った。

「こんないたずらして……」

 たしなめると、風船が弾けたように笑い始めた。

「ハハッ、いたずらか。そりゃいい」

 ひとしきり笑い、それでも運転は乱れることがない。次の信号も赤になり、手を握られた。



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