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第1章第10話

 命じる、とは。

『専任秘書兼婚約者を命じる』

 婚約って、命令するものだろうか。

 信号は、すぐに青に変わった。私が黙り込んだものだから、彼は車を脇へ寄せ、後ろの車に道を譲った。

「またびっくりさせたな」

「冗談じゃない……んですか?」

 だとしても。

 婚約を命じるって、おかしいよね。ふさわしい婚約者を探すのをお手伝いする係を命じる、ならまだわかるけど。

「灯里」

 また手が重ねられ、それを振り払う気は私にはない。いやなことではないから。ただ、頭が追いつかない。やっぱりこの人の言動は理解を超える。

「説明していいか」

「ゆっくり、お願いします」

「うん」

 一分くらいの間は、エンジン音しか聞こえなかった。彼は言葉を探しながらも、手を離さない。

「一番大事な文言が抜けていたから、書き加えた。俺が、秘書なら誰でも襲う野獣に見えるか?」

「野獣には、見えませんけど……」

「けど?」

 指が、絡み合っていく。婚約者って何。駄目だ、それは問題が大きすぎる。別の方向から攻めよう。

「悪魔はハンサムな紳士だ、って」

「誰が言ってた」

「うちのおばあちゃんです」

「おじいさんの容貌は?」

「ハンサムには程遠いです」

 話がどんどんずれていく気がするのに、素直に答えてしまう。

 今まで、会社の人に身内の話をしたことなんて、ほとんどなかった。社長に対しては、なぜこんなに無防備になってしまうんだろう。

「ええと……いたずらでも、冗談でもないとすると」

「正式な契約の申込みだ。戸倉灯里に、俺の婚約者を装ってほしい」

「どこから突っ込んでいいのやら……」

「おもしろい反応だ」

 これをおもしろいと言えるこの人は、もはや別の世界の住人なのかもしれない。提案が突飛すぎて、昨日から積み重ねてきた温かいものが、いったん全部飛んで行ってしまった感がある。

 けれど、触れ合う指先は、知ってしまった温もり。

「『装う』ということは、偽装婚約なんですね?」

「何か不都合が? 恋人は……いないよな?」

「確信持って言わないでください。理由は何ですか」

「理由によっては断ると?」

「それは……夫婦でなければできない詐欺とか殺人とか、法を犯すようなことなら、お断りします」

 たとえ、この温もりを諦めることになっても。惜しむ前に、傷つく前に、誰かを傷つける前に、手放す。

 彼は咳き込んだ。その直前に唇が歪んだから、私の言葉に笑いかけて、雰囲気から言ってそれはまずいからと、笑いを飲み込んでしまったんだろう。

「ゴホッ……コホッ」

「もう……大丈夫ですか」」

 見かねて、シートベルトを外し、身を寄せて背中をさする。

「……ふう」

 社長も、シートベルトを外した。

「私が言ったこと、外れてました?」

「刑事ドラマの観すぎじゃないのか。もっと単純なことだ」

「社長の単純は、私にとっては複雑もしれません」

「あのな、頼むから笑わせないで、くれ、コホッ」

 笑わせようとしたわけじゃないんだけどなあ。再び背中を撫でて、じゃあ何だろうって考える。……あったかいなあ。

「うーん……昔、一度だけ会ったことのある人が社長に恩義を感じて、遺産を残してくれた。でもそれは、遺言状が公開されてから一定期間内に婚約者を連れていかないと無効になる、とか」

「だから、笑わせるなって……それ、いろいろ混ざってるだろ」

 顔が近い。背中に触れているうちに、寄り添うような体勢になっていた。咳をこらえる彼に、思わず微笑みかける。だって、たった一日で、これが私たちの距離になってしまった。

 社長はもちろん、豊宮グループの後継ぎを育てなくてはならないから、いずれは結婚するんだろう。政財界のお嬢様か、バリバリの実業家の女性か……ハリウッド女優なんていう線もあるかもしれない。その時も私は、秘書なんだろうか。元偽装婚約者が専任秘書だったら、奥さんになる人はいやだよね……。

「灯里」

 肩を抱かれる。甘い声。駄目ですよ、そういうのは、本当に婚約する相手にとっておかなくちゃ。

 ……でも、今は私が受け取っても、いいのかな?

 嘘だけど。

 嘘……何が、嘘? どこからが嘘?

 引き受けた場合は……私は、何に、誰に嘘をつくことになるの?

 真夜さんとは何でもないって、必死に否定した社長。昨日からのいろんなこと。婚約者の振りをするから、私を抱いたんだろうか。 

 待って。偽装してまで婚約者がいますって宣言したいのは、普通(普通じゃないけど)、誰かに見せるためだよね? 夜の営みは人に見せるものじゃないんだから、そこがおかしい。おかしいと思うけど、日が高いうちから、車の中とはいえ外で問い質すことじゃない。

 ん? 見せる?

「あ」

「わかったか?」

 甘い声はそのまま。抱き寄せる手の力が強くなったのが解せない。

「お見合い……ですか? 断りたい縁談があるから?」

 否定の言葉はない。当たったみたい。

「ということは、その縁談のお相手の前で、親しい振りをすればいいんでしょうか」

 かわいそうな気もするけどなあ。

「んっ!?」

 唇を奪われた。何の前触れもなく。……ちょっと、これ……外でするキスじゃないっ。車の中だけど!


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