頭の中がとろけていく。
心は、もともと形がないから、もっととろけていく。ぺしぺし、と肩を叩いても、なかなか解放してもらえなかった。
「……何なんですか、急に」
熱いキスで、彼の前髪が少し乱れた。色気が漏れて大変なことになってる。
「振りじゃないだろ? 俺たちは実際に親しい」
「そっ……」
そのためにわざわざ!?
「口で言えばいいじゃないですかっ」
「言葉よりも早く伝わる手段があるなら、有効に使わない手はないだろ?」
「怠慢ですっ」
「これはまた。エドモン・ロスタンの物語に迷い込んで叱られている気分だ。映画にもなっているが、観たか?」
「はい。中学の時の英語の先生に教えてもらって……って、話を逸らさないでください!」
「あれは名画だよな」
「それには全面的に同意しますけど……はぁ……」
火照った顔を見られるのは、何度目のキスでも恥ずかしい。俯く私を抱き寄せてよしよしと撫でるのは、優しさなのか、婚約者としての演技なのか。そういえば彼が今言った物語も、切ない演技がテーマになっていたっけ。
体が離れ、大きな手も離れていく。
「あ……」
一瞬、追いかけてしまった。戸惑う私を、彼は満足そうに見て頷いている。
「それでいい。そのままの灯里でいてくれ」
「……翻訳してください」
彼が演技をするから私はいい、という意味なのか。
演技力が頼りないからそれでいいぞっていう、諦めの境地なのか。
「言葉のままの意味だが」
「はぁ……」
いけない。流されてる。どこまで話を戻せばいい? えーと、お見合いか?っていうところだ。
「お見合いは、いつなんですか?」
「わからん」
「はい?」
「ひとつではないからな。いちいち関わってはいられないから、一人も会ってない」
整理すると、社長にお見合い話があるのは事実で、それが私との契約に関係している。
「お話があったのは、最近ですか?」
「俺が大学に入る頃には、毎月何件か話が来るようになった」
さすが、天下の豊宮グループ……。今の規模になったのは、目の前にいる社長の手腕によるところが大きいようだけど。
「高三の時、俺が十八になったらすぐ結婚してくれと言ってきたのは、フランスの女優だった」
何とも色っぽい話。
「その類のお話が来ないようにするため、私と契約を?」
「まあ、大筋はそんなところだ」
やや、うんざりした顔をしているのは、女性たちがどうこうよりも、そのつど断るのがわずらわしいんだろう。うん、そこは理解した。毎月三件だとしても、一年で三十六、十年で三百六十でしょ。突然写真を送りつけられたり、仲立ちをする人から何度も連絡があったりしたら、確かに大変。というのは、今までに読んだ小説などからの、勝手な想像だけど。
「そのうち、持ち込まれた縁談の数が千を超えそうですね」
「もう超えてる。インターネットの普及も手伝ってな。世界にはどれだけの数の国があるのかと、思い知らされたよ」
「グローバル社会……」
見せた苦笑いからは、この問題に本当に悩まされていることが伝わってきた。私で役に立てるなら、とは思うけど……。女優さんを袖にした男子高校生が、今や世界でも指折りの大企業を率いているわけでしょ。
「人選について、根本的な問題がある気がします」
「問題? ……恋人はいないが実は結婚してますとは言わないよな?」
「いえいえ、それはないです。そっちではなくて、ですね。皆さん……世界中の皆さんの、反応についてです。社長の相手が私であることに、納得する人がいるんでしょうか」
私はいないと思うんです、と続けることはできなかった。社長が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたから。
「……社長?」
返事がない。反応がない。
「え、あの、社長?」
おそるおそる肩に手を置くと、ぴくっと動いた。
「大丈夫ですか? ご気分が悪いなら……」
何かの病気かもしれない。とりあえず会社に電話をして……とスマートフォンを取り出すと、長い長いため息が聞こえた。
「はぁ――――」
彼は息を吐きながら、私に全体重を預けるように寄りかかってきた。全身の力が抜けてしまったみたいに。抱えきれない、大きな体。熱はなさそうだけど……。
「灯里」
「はい。どこか、苦しいですか?」
「医者に行くような病気じゃないから、心配するな」
「そう言われても……」
「昨日から、腑に落ちない点があったんだが……疑問が氷解した」
「なら、よかったです……?」
「もう少し、こうしてていいか」
「ええ」
心配には、違いないけど。呼吸は落ち着いているし……少し待ってまだ様子がおかしかったら、ホテルの下の病院に連れていこうかな。
数分後、彼はゆっくりと体を起こした。浮かべたのは、何かの決意の色。
「社長……」
「質問の答えがまだだったな」
額に、頬に、唇が触れる。鼻の頭がくっついて、二人で小さく笑った。そのまま、彼が囁く。
「俺の人選に、間違いがあるはずがない」
「それを、信じろと?」
私も、囁いた。
「ああ。俺を信じられるのなら」
「……信じてみます」
甘く見つめられ、吐息が重なった。