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第1章第11話

 頭の中がとろけていく。

 心は、もともと形がないから、もっととろけていく。ぺしぺし、と肩を叩いても、なかなか解放してもらえなかった。

「……何なんですか、急に」

 熱いキスで、彼の前髪が少し乱れた。色気が漏れて大変なことになってる。

「振りじゃないだろ? 俺たちは実際に親しい」

「そっ……」

 そのためにわざわざ!?

「口で言えばいいじゃないですかっ」

「言葉よりも早く伝わる手段があるなら、有効に使わない手はないだろ?」

「怠慢ですっ」

「これはまた。エドモン・ロスタンの物語に迷い込んで叱られている気分だ。映画にもなっているが、観たか?」

「はい。中学の時の英語の先生に教えてもらって……って、話を逸らさないでください!」

「あれは名画だよな」

「それには全面的に同意しますけど……はぁ……」

 火照った顔を見られるのは、何度目のキスでも恥ずかしい。俯く私を抱き寄せてよしよしと撫でるのは、優しさなのか、婚約者としての演技なのか。そういえば彼が今言った物語も、切ない演技がテーマになっていたっけ。

 体が離れ、大きな手も離れていく。

「あ……」

 一瞬、追いかけてしまった。戸惑う私を、彼は満足そうに見て頷いている。

「それでいい。そのままの灯里でいてくれ」

「……翻訳してください」

 彼が演技をするから私はいい、という意味なのか。

 演技力が頼りないからそれでいいぞっていう、諦めの境地なのか。

「言葉のままの意味だが」

「はぁ……」

 いけない。流されてる。どこまで話を戻せばいい? えーと、お見合いか?っていうところだ。

「お見合いは、いつなんですか?」

「わからん」

「はい?」

「ひとつではないからな。いちいち関わってはいられないから、一人も会ってない」

 整理すると、社長にお見合い話があるのは事実で、それが私との契約に関係している。

「お話があったのは、最近ですか?」

「俺が大学に入る頃には、毎月何件か話が来るようになった」

 さすが、天下の豊宮グループ……。今の規模になったのは、目の前にいる社長の手腕によるところが大きいようだけど。

「高三の時、俺が十八になったらすぐ結婚してくれと言ってきたのは、フランスの女優だった」

 何とも色っぽい話。

「その類のお話が来ないようにするため、私と契約を?」

「まあ、大筋はそんなところだ」

 やや、うんざりした顔をしているのは、女性たちがどうこうよりも、そのつど断るのがわずらわしいんだろう。うん、そこは理解した。毎月三件だとしても、一年で三十六、十年で三百六十でしょ。突然写真を送りつけられたり、仲立ちをする人から何度も連絡があったりしたら、確かに大変。というのは、今までに読んだ小説などからの、勝手な想像だけど。

「そのうち、持ち込まれた縁談の数が千を超えそうですね」

「もう超えてる。インターネットの普及も手伝ってな。世界にはどれだけの数の国があるのかと、思い知らされたよ」

「グローバル社会……」

 見せた苦笑いからは、この問題に本当に悩まされていることが伝わってきた。私で役に立てるなら、とは思うけど……。女優さんを袖にした男子高校生が、今や世界でも指折りの大企業を率いているわけでしょ。

「人選について、根本的な問題がある気がします」

「問題? ……恋人はいないが実は結婚してますとは言わないよな?」

「いえいえ、それはないです。そっちではなくて、ですね。皆さん……世界中の皆さんの、反応についてです。社長の相手が私であることに、納得する人がいるんでしょうか」

 私はいないと思うんです、と続けることはできなかった。社長が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたから。

「……社長?」

 返事がない。反応がない。

「え、あの、社長?」

 おそるおそる肩に手を置くと、ぴくっと動いた。

「大丈夫ですか? ご気分が悪いなら……」

 何かの病気かもしれない。とりあえず会社に電話をして……とスマートフォンを取り出すと、長い長いため息が聞こえた。

「はぁ――――」

 彼は息を吐きながら、私に全体重を預けるように寄りかかってきた。全身の力が抜けてしまったみたいに。抱えきれない、大きな体。熱はなさそうだけど……。

「灯里」

「はい。どこか、苦しいですか?」

「医者に行くような病気じゃないから、心配するな」

「そう言われても……」

「昨日から、腑に落ちない点があったんだが……疑問が氷解した」

「なら、よかったです……?」

「もう少し、こうしてていいか」

「ええ」

 心配には、違いないけど。呼吸は落ち着いているし……少し待ってまだ様子がおかしかったら、ホテルの下の病院に連れていこうかな。

 数分後、彼はゆっくりと体を起こした。浮かべたのは、何かの決意の色。

「社長……」

「質問の答えがまだだったな」

 額に、頬に、唇が触れる。鼻の頭がくっついて、二人で小さく笑った。そのまま、彼が囁く。

「俺の人選に、間違いがあるはずがない」

「それを、信じろと?」

 私も、囁いた。

「ああ。俺を信じられるのなら」

「……信じてみます」

 甘く見つめられ、吐息が重なった。




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