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第1章第12話

「行くぞ。ベルトを」

「はい」

 外していたシートベルトを締めて、新しい時間が動き出す。私は今から、社長の婚約者だ。偽装だけどね。

 軽やかな運転。景色が、キラキラと流れていく。

 驚きはしたものの、話を聞けば危ないことではないし、あんな姿を見せられたらますます、手を繋いでいてあげたくなってしまった。……別に、実際に四六時中、繋ぐわけじゃないけど。

 辞令は、バッグに戻した。契約期間は特に言われていないけど、まずは世界中から来る縁談がストップするかどうか様子を見るんだろうな。

 それにしても、疑問は残る。

「社長」

 ひとつ聞いてみたくて声をかけると、歌うように一言返ってきた。

「『一輝さん』」

 は?

「あの……?」

「婚約者なんだ。二人だけの時は名前で呼んでくれ」

「……二人だけの時は、『振り』はいらないのでは」

「慣れておかないと、世界を騙すことはできないぞ」

「そういう時、ほんっと楽しそうですよね……一輝さん」

「よし」

 深く頷いて、ご満悦。

「で? 何だ」

 気を取り直して質問した。

「このポスト、長い間決まらなかったそうですけど。それはなぜですか?」

「いいと思う女が見つからなかった」

 単純明快。私は合格なんだろうか。

「どこが合格点なのか、聞きたいか?」

 彼の顔と声は、割とまじめに説明してくれそうな感じではあるけど。だからこそ、聞いたら後戻りできない気がした。多分、まだ……聞いちゃいけない。準備期間が要る。

「今は……いいです」

 一輝さんの大きな手は、左に見える高層ビルへと、車と私を導いていく。私の進路と未来が、この手の中にある。

「いつか、話してやる」

 遠くを見据える目。

 いつかとは、契約が終わる時? その時、私はどうするんだろう。

 ビルが近付いてきた。頭が、仕事モードに切り替わる。婚約者も仕事だけど、それはそれとして……。

「あ! 大変!」

「どうした」

「私、名刺持ってませんっ」

 昨日の今日だから、間に合わなかったと言い訳しても、相手によっては許してもらえるかもしれないけど。

「グローブボックスを開けてみろ」

 彼は、まったく慌てた様子がない。まさかと思ったら、まさかだった。今刷り上がってきましたという状態の名刺が、おそらく百枚。ご丁寧に、イニシャル入りの名刺入れまで用意されていた。

「だから、いつの間に……」

 お礼を述べるよりも先に、呟いた。

 私の婚約者(偽装)には、魔法使いの友達が何人もいるのかもしれない。


 午前と午後にわけて、五社まわった。あらかじめ連絡しておいたらしく、スムーズにご挨拶ができた。どこも、代表の方と、日々の窓口となる方にお会いして、訪問時間は平均して約一時間ずつ。

 ここでも私は驚かされた。どこの方も私の経歴を承知していて、「森戸さんの右腕だった戸倉さんですね」と迎えられた。

「あの森戸さんに仕込まれたんだ。これで豊宮さんもますます安泰というわけですな」

「先日、森戸さんにお会いしてね。戸倉さんのことを心配なさってた。うちが獲得しようと動いていたのに、先を越されたなあ」

 泣きそうになるのを、仕事だからと堪えた。車に戻るたび、新しいハンカチで涙を拭いた。私が駄目だから、若いから、一緒に仕事をしていこうと思えない部分があるから、やめさせられたんだと思ってた……そうじゃなかった……。

「長年共に苦労してきた人間は最後まで面倒を見るしかないが、君には無限の可能性があるから、とね。余力があるうちに手を離してやらないといけない、と……決断するまで、何週間も悩んでおられたよ」

 五つ目の会社の会長さんが、そう教えてくださった。

 一輝さんは、私が泣き止むまで、肩を抱いていてくれた。


「大丈夫か」

「はい。すみません、何度もお時間を取らせてしまって」

「いったん社に戻って、それから夕食にしよう」

 はい、と答える前に、お腹が鳴った。朝のことを思い出して、微笑み合った。


 一日ぶりで会社に帰り着き、駐車場から直行のエレベーターで最上階へ向かう。上三つの階は、登録された指紋と網膜の持ち主でなければ到達できない。

「セキュリティがしっかりしてるんですね」

「親父がスパイ映画マニアでな。新社屋を建てる時、絶対に取り入れろと譲らなかった」

「相談役が? 社長の映画好きは、お父様の影響なんですか?」

「お袋も好きだな。昔の西部劇やミュージカルは大体観てる」

「私の母もです」

 エレベーターは、移動する密室。和やかな会話が途切れた時が、二人の時間に切り替わる合図。今から、秘書室統括の方に挨拶するという重要な仕事が待っているのに。豊宮ホールディングス本社は土日祝日が休日だけど、その方は休日出勤をして待っていてくださるという。

 だから、甘い雰囲気を作ってる場合じゃないんだけど……並んで立っていれば、指が触れ合って、視線が絡み合う。ここは会社ですからねと目で注意しても、それでおとなしくする人ならこんな関係になっていない。……抱擁までなら、いいかな。かなり密着してるけど、あったかくて安心するし……。……って、社長っ、一輝さんっ、ストップー!

「会社でキスは駄目ですっ」



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