目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第1章第13話

 渾身の力で彼の胸を押し、唇を守った。エレベーターの扉が開かなければ、押し切られていたかもしれない。彼には私の力なんて、猫の子程度にしか感じられないだろう。難なく引き寄せようとする困った人を止めてくれたのは、昨日初めて聞いた凛とした声だった。

「お帰りなさい。お疲れ様」

「真夜さん!?」

 今日もシンプルかつゴージャスな彼女が、扉の前で出迎えてくれた。

「『あとでもいい』っていうのは……」

 部屋を出る前に言われたことを、社長に確認する。

「そういうことだ。悪いな、休日に」

 前半は私に、後半は真夜さんに言いながら、彼はエレベーターの外へと私を連れ出した。腰を抱いて。

「私はいいけど、灯里ちゃん、困ってるじゃない」

 はい、困ってますっ。

 踵を返し、優雅に歩を進める真夜さんに、彼が颯爽と続く。左手は私をがっしりつかまえているのに、羽ほどの重さも感じていないかのよう。

「照れてるだけだ。慣れてもらわないとな」

「節度っていう言葉、知ってる?」

 ですよね!

 私が言いたいことを、彼女は全部言ってくれる。でも、どこまで知っているんだろうか。昨日会った時は、もう知ってたのかな。私が、秘書兼偽装婚約者だって。

 答えは、社長室のスペースに案内されて、すぐにわかった。広い広い部屋の一角、エレベーターホールから一番近いところに設けられているのが、真夜さん専用のオフィス。まずはそこに通された。

「最初に言っておくわね。私は、あなたの本当の辞令のこと、承知してるから。そこは安心して」

「はい……」

 勧められた椅子に腰を下ろし、ここでは嘘はつかなくていいんだとホッとした。

「明田が作ったのは、見たのか?」

 社長は、続き部屋になっている自分の領域から、秘書室統括の彼女の部屋を覗き込んでいる。遠慮してるんだろうか。声には不満が滲んでいる。

「社内に通知されるんだから、あれ以上のことは書けないでしょ。無理言わないの」

「しかし……」

「彼女には話して、了解してもらえたんでしょ? なら、いいじゃないの」

 ねぇ、とウインクされて、反射的に頷く。了解したことには違いはない。

「ほかに、このことを知ってる人はいるんですか?」

「あとは冴木君ね」

「そうですか。幸太が……」

 幼馴染の顔がひきつっていた理由は、危険な立場に置かれるからっていうだけじゃなかったんだ。

 社長は、自分のデスクの方へ歩いていった。机の上に置かれた書類に目を走らせたあとは、私たちに背を向けて、外を眺め始めた。映画のワンシーンみたい。

「中学まで一緒だったんですって? 昨日、情報共有の連絡があった時、彼、心配もしていたけど、『灯里と一緒に働ける』ってとても喜んでいたわよ」

「はい。私も嬉しいです」

 そこは、素直に、本当に嬉しい。

 真夜さんは、備え付けのポットでコーヒーを淹れてくれた。社長の分も。

「あ。それ、私が持っていきましょうか」

「いいのよ。昨日から連れ回されて疲れたでしょ。あなたは座ってて」

 その言葉に甘えて、眩しいほど白いブラウスの背中を見送ると、社長に何かひと声かけて、返ってきた言葉に笑いを堪えるようにして、戻ってきた。それから、私の向かいに腰を下ろして、図面も使いながら詳しい説明をしてくれた。

 エレベーターホールから左へ行くと、社長のお父さんである相談役のお部屋と、お兄さんである会長のお部屋があるそうだ。

「私はお二人の秘書を兼ねているし、お店に行ってることも多いけど、いつでも連絡してね。もちろん、ここにいる時は何でも直接聞いて。灯里ちゃんのオフィスは目と鼻の先だから」

 エレベーターホールから見て、一番右側の一角が、私に与えられた空間。ほかにもいくつか部屋があり、どれも、社長室の中とはいえしっかりと区切られている。

 ひと通りの説明を受けた後、まだお礼を言っていないことを思い出した。

「そういえば、私の名刺って、もしかして真夜さんが?」

「ええ。すぐになくなるでしょうから、追加で多めに発注してあるわ」

「ありがとうございました。あの、ほかにもたくさん、何から何まで」

 彼女は、優しく目を細めた。

「厄介な役を引き受けてくれるんだもの。友人として、できるだけのことはさせて。あいつのじゃなくて、あなたのね」

「真夜さんは、社長とは……」

「ひと言で言えば、悪友。彼のビジネスの腕は信じてるわ」

 社長は、彼女のことを「仕事はできる」って言ってた。それ以外の部分のいい面も悪い面も、お互い知り尽くしているのかもしれない。

「大学時代にはもう、あのずば抜けた能力を隠し切れなくなってね。今の時代、どんなに本人が慎重にしていても、どこからかパッと知れ渡ってしまうことがあるから。恐ろしく器用だとか、あいつは人間じゃないとか、いろいろ言われてきたわ」

「そんな……」

 それには、悪い意味も多分に含まれていただろう。社長は、一輝さんは、優しくてかわいくて、とても人間らしい人なのに。わかりにくいところも含めて。

「そう。実際に接してみれば……ね? ふふっ、この点は説明はいらないみたいね」

「真夜さんの、魔法のおかげです」

「魔法? おもしろいこと言うのね」

「うまく言えなくて」

 うん、そうだ。今は、魔法の国にいるような時間を、逃げずに自分の意志で過ごしたい。ポケットに左手を突っ込んで、右手に持ったカップでゆっくりとコーヒーを飲んでいる、さっきから後ろ姿しか見せてくれないあの人を、私にできることでお手伝いしたい。

「真夜さん、どうぞよろしくお願いします。ご迷惑をおかけしないように頑張ります」

「こちらこそ。あいつのこと、よろしくね」

 温かい声は、長年の友人への思いやりに溢れていた。

「はい」

 明田部長と同じだ。真夜さんは、社長のことを大切に思っている。偽装婚約なんて思いついて実行しちゃう突拍子もない人だけど、身近な人たちから愛されているんだ。

 私も、一輝さんを助けたい。守りたい。

 祈りのようなその気持ちがどこから沸いてくるのかは、わからない。どれくらいの期間、関わっていられるのかも不明。だけど、この魔法の国にいる間だけは。

 この会社で、本当の辞令を受けて働く決意を新たにしていると、彼がふと、こちらを見た。視線が合うだけで時が止まるような感覚。それが何ていう魔法なのか、わかる時はくるんだろうか。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?