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第1章第14話

「じゃあ、灯里ちゃんのオフィスに移動しましょうか」

 真夜さんの声で、時間が動き出した。

「あ、はい」

 席を立ち、いったん社長専用の空間へ出て、彼の視線に追いかけられながら部屋を横切った。

 真夜さんのオフィスはベージュを基調としたスタイリッシュなもので、私の方は明るいブラウン。木目調の壁やデスクに、暖かみを感じる。作りつけの大きな本棚、装備された最新機器。片隅には洗面台と鏡まである。

「素敵……」

「やっと使ってくれる人が現れて、この部屋も喜んでると思うわ。ロッカーを開けてみて」

 ロッカーといっても、それはもはや立派なクローゼット。昨日のスーツや靴が、綺麗におさめられている。それだけじゃない。普段使いできそうなスーツやフォーマルなもの、華やかなドレスに、休日の外出に着たくなるような気軽な服。それぞれに合う靴に小物。ひざ掛けに毛布、各種サイズのタオルまで。

「……ここで生活できちゃいそうです」

「そうね。冷蔵庫もあるし、いざとなれば仮眠室にはバスルームがある」

「仮眠室」

「そう。あっちね」

 真夜さんは、壁を指さした。社長がいる窓の方向。向かい合う形で何か部屋があるのはわかっていたけど。お風呂付きの仮眠室って。

「それって、社長専用ですよね?」

「どうかしら?」

 うぅ、まさか会社でアレコレされることはないだろうけど……。

 ないない。偽装だし!

 頭を振って変な想像を追い払い、服のことに話を持っていく。

「それにしても、ここまで用意していただいて、申し訳ないというか……」

「ほんと、極端なのよねぇ。そこに入っているのは全部、あなたへあいつからのプレゼント。まあ、迷惑料ね」

「プレゼント……」

 スケールが違う。ハンカチで終わりじゃなかった。

「サイズやなんかは、私が確認してあるから」

「はぁ……」

 感嘆と呆れと、いろんなものを飛び越えた感動が、声に混じる。いいのかなぁ。価値観が揺らぎそう。

「もらっときなさい。ほかに、お金使う場所なんかないんだから」

「聞こえてるぞ」

「本当のことでしょ」

 バレンタインに一人で映画を観るつもりだった社長。派手な遊びはしない人なんだろうか。コンサート会場でも仕事してたし。危険を避けるためっていうのもあるかも。星の数ほど彼女がいるのかと疑ってもみたけど、この調子で私をそばに置いていたら、ほかの女性と甘い時間を過ごす暇はなさそう。

「うーん……」

 不可解。自分にふさわしい恋人を演じさせるための準備とはいえ、あまりにも行き届いている。大雑把さが感じられない。心遣いが細やか。社長の人柄が表れているのかな。それか、一定以上のいい男には当たり前に備わっている能力?

「灯里ちゃん? 難しい顔してるけど大丈夫?」

「え、あ、はいっ。すみません」

「足りないものは言ってね。パソコン周りで必要なものは、冴木君に言えばそろえてくれるから」

「わかりました。幸太、そういうの得意ですものね」

 機械いじりが大好きで、大学では電子工学を学んでいた。

「そうなのよ。彼が来てくれて、うちがどれだけ助かってるか」

 幼馴染がほめられるのは嬉しくて、頬が緩んだ。


「さて、それじゃあエレベーターの登録をしましょうか」

「はい」

 今度は、真夜さんのオフィスに隣接した小部屋へ向かう。またじーっと私を目で追う社長が、ぼそっと声を発した。

「必要ないと思うが」

 え、何で。指紋と網膜を登録しないと、私は一人ではこのフロアへ来ることができない。「俺から離れるな」と言われてはいるけど、下の階の部署に用事があるとして、いちいち社長同伴はおかしいでしょ。

「何言ってるのよ。あんたが社に出てこない日はどうするつもり?」

「灯里は俺の専属だ。俺がいなければ……」

「『ここへ来る意味がないだろう』とでも? くだらないこと言ってる暇があったら、これ処理してください、社長!」

 憮然とした顔の彼にUSBメモリを押し付け、真夜さんはスタスタ歩いていく。社長は受け取ったメモリを眺めてから私を見て、手を伸ばしかけて引っ込めた。首を傾げた私に、肩を竦める仕草。うーん、何か言いたそうなんだよね。無言で去るのは、何だか……。

 ノートパソコンを開き、メモリを挿した彼の方へ、画面が目に入らないよう気を付けながら近寄った。

「しゃ……一輝さん。あとで、コーヒーのおかわり持ってきますから」

 名前を呼ばれて目を輝かせた彼は、すっと私の腕を撫でた。

「待っている」

「はい」

 吸い込まれそうな瞳。時間が止まる前に、一礼して真夜さんのあとを追った。


 そこは、指紋と網膜を登録するための特別な部屋。登録済みの人か、真夜さんが許可した人でなければ入れないという。登録を終え、直結した扉から真夜さんのオフィスへ戻った。あとは書類に何枚かサインをして、入社に伴う事務手続きが一段落した。

「お疲れ様」

「ありがとうございました」

 新しいコーヒーをセットして、社長のキラキラ光る瞳を思い浮かべる。かわいいなあ、という思いと深まる謎。車の中で調子を崩したのが気がかりだけど、今は大丈夫そう。ただ、心ここにあらずな印象を受ける。真夜さんがいるからおとなしい、っていうのとは違うと思う。昨日はお店で、好き勝手に振る舞っていたもの。

「どうかした? 気になることがあれば、本当に何でも言って?」

 漂ってきたコーヒーの香りに、真夜さんの澄んだ声が重なる。そう言ってくれるのはありがたい。少なくとも、ほかの人には言えない。例えば幸太や明田さんに話したって、困らせるだけ。

「気になるといえば、気になってて。社長って、いつもああなんですか」

「うーん。抽象的な質問だけど、昨日からの行動に限定するならば……まあ、そうね。理解しにくい男よ」

「その言葉がこれほど当てはまる人がいるとは思いませんでした……」

「あらあら。さっそく喧嘩したわけでもないでしょうに。尤も、彼は拗ねてるみたいだけど」

 拗ねてる?

「そう。お預けを食ってるっていう顔」

 さっきのキスかー! 会社では駄目だって私が言ったから、拗ねた。……もう……子供じゃないんだから……。




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