「じゃあ、灯里ちゃんのオフィスに移動しましょうか」
真夜さんの声で、時間が動き出した。
「あ、はい」
席を立ち、いったん社長専用の空間へ出て、彼の視線に追いかけられながら部屋を横切った。
真夜さんのオフィスはベージュを基調としたスタイリッシュなもので、私の方は明るいブラウン。木目調の壁やデスクに、暖かみを感じる。作りつけの大きな本棚、装備された最新機器。片隅には洗面台と鏡まである。
「素敵……」
「やっと使ってくれる人が現れて、この部屋も喜んでると思うわ。ロッカーを開けてみて」
ロッカーといっても、それはもはや立派なクローゼット。昨日のスーツや靴が、綺麗におさめられている。それだけじゃない。普段使いできそうなスーツやフォーマルなもの、華やかなドレスに、休日の外出に着たくなるような気軽な服。それぞれに合う靴に小物。ひざ掛けに毛布、各種サイズのタオルまで。
「……ここで生活できちゃいそうです」
「そうね。冷蔵庫もあるし、いざとなれば仮眠室にはバスルームがある」
「仮眠室」
「そう。あっちね」
真夜さんは、壁を指さした。社長がいる窓の方向。向かい合う形で何か部屋があるのはわかっていたけど。お風呂付きの仮眠室って。
「それって、社長専用ですよね?」
「どうかしら?」
うぅ、まさか会社でアレコレされることはないだろうけど……。
ないない。偽装だし!
頭を振って変な想像を追い払い、服のことに話を持っていく。
「それにしても、ここまで用意していただいて、申し訳ないというか……」
「ほんと、極端なのよねぇ。そこに入っているのは全部、あなたへあいつからのプレゼント。まあ、迷惑料ね」
「プレゼント……」
スケールが違う。ハンカチで終わりじゃなかった。
「サイズやなんかは、私が確認してあるから」
「はぁ……」
感嘆と呆れと、いろんなものを飛び越えた感動が、声に混じる。いいのかなぁ。価値観が揺らぎそう。
「もらっときなさい。ほかに、お金使う場所なんかないんだから」
「聞こえてるぞ」
「本当のことでしょ」
バレンタインに一人で映画を観るつもりだった社長。派手な遊びはしない人なんだろうか。コンサート会場でも仕事してたし。危険を避けるためっていうのもあるかも。星の数ほど彼女がいるのかと疑ってもみたけど、この調子で私をそばに置いていたら、ほかの女性と甘い時間を過ごす暇はなさそう。
「うーん……」
不可解。自分にふさわしい恋人を演じさせるための準備とはいえ、あまりにも行き届いている。大雑把さが感じられない。心遣いが細やか。社長の人柄が表れているのかな。それか、一定以上のいい男には当たり前に備わっている能力?
「灯里ちゃん? 難しい顔してるけど大丈夫?」
「え、あ、はいっ。すみません」
「足りないものは言ってね。パソコン周りで必要なものは、冴木君に言えばそろえてくれるから」
「わかりました。幸太、そういうの得意ですものね」
機械いじりが大好きで、大学では電子工学を学んでいた。
「そうなのよ。彼が来てくれて、うちがどれだけ助かってるか」
幼馴染がほめられるのは嬉しくて、頬が緩んだ。
「さて、それじゃあエレベーターの登録をしましょうか」
「はい」
今度は、真夜さんのオフィスに隣接した小部屋へ向かう。またじーっと私を目で追う社長が、ぼそっと声を発した。
「必要ないと思うが」
え、何で。指紋と網膜を登録しないと、私は一人ではこのフロアへ来ることができない。「俺から離れるな」と言われてはいるけど、下の階の部署に用事があるとして、いちいち社長同伴はおかしいでしょ。
「何言ってるのよ。あんたが社に出てこない日はどうするつもり?」
「灯里は俺の専属だ。俺がいなければ……」
「『ここへ来る意味がないだろう』とでも? くだらないこと言ってる暇があったら、これ処理してください、社長!」
憮然とした顔の彼にUSBメモリを押し付け、真夜さんはスタスタ歩いていく。社長は受け取ったメモリを眺めてから私を見て、手を伸ばしかけて引っ込めた。首を傾げた私に、肩を竦める仕草。うーん、何か言いたそうなんだよね。無言で去るのは、何だか……。
ノートパソコンを開き、メモリを挿した彼の方へ、画面が目に入らないよう気を付けながら近寄った。
「しゃ……一輝さん。あとで、コーヒーのおかわり持ってきますから」
名前を呼ばれて目を輝かせた彼は、すっと私の腕を撫でた。
「待っている」
「はい」
吸い込まれそうな瞳。時間が止まる前に、一礼して真夜さんのあとを追った。
そこは、指紋と網膜を登録するための特別な部屋。登録済みの人か、真夜さんが許可した人でなければ入れないという。登録を終え、直結した扉から真夜さんのオフィスへ戻った。あとは書類に何枚かサインをして、入社に伴う事務手続きが一段落した。
「お疲れ様」
「ありがとうございました」
新しいコーヒーをセットして、社長のキラキラ光る瞳を思い浮かべる。かわいいなあ、という思いと深まる謎。車の中で調子を崩したのが気がかりだけど、今は大丈夫そう。ただ、心ここにあらずな印象を受ける。真夜さんがいるからおとなしい、っていうのとは違うと思う。昨日はお店で、好き勝手に振る舞っていたもの。
「どうかした? 気になることがあれば、本当に何でも言って?」
漂ってきたコーヒーの香りに、真夜さんの澄んだ声が重なる。そう言ってくれるのはありがたい。少なくとも、ほかの人には言えない。例えば幸太や明田さんに話したって、困らせるだけ。
「気になるといえば、気になってて。社長って、いつもああなんですか」
「うーん。抽象的な質問だけど、昨日からの行動に限定するならば……まあ、そうね。理解しにくい男よ」
「その言葉がこれほど当てはまる人がいるとは思いませんでした……」
「あらあら。さっそく喧嘩したわけでもないでしょうに。尤も、彼は拗ねてるみたいだけど」
拗ねてる?
「そう。お預けを食ってるっていう顔」
さっきのキスかー! 会社では駄目だって私が言ったから、拗ねた。……もう……子供じゃないんだから……。