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第1章第15話

「すみません、私のせいです。多分」

「そのぐらいでいいのよ。少ししつけてやって」

「難易度が高い業務ですね……」

 言葉も表情も、曖昧になる。

「あなたなら大丈夫。話は変わるけど、今のアパートだと通勤時間、けっこうかかるでしょ。引っ越す予定はあるの?」

 引っ越すつもりでいたんですけど。

 社長との会話内容を、端折って伝えた。

「しばらくホテルに?」

「はい。今朝言われて」

「そう……」

 美しい横顔に、ほんの少し影がさした。それはすぐに消えて、優しい笑みを私に向けた。

「せっかく滞在するんだもの、サービスを満喫するといいわ。昨日のドレスは、もうホテルのクリーニングの方へまわっているでしょうね。そのまま、保管してくれるはずだから」

「それで社長……」

「ん?」

「私が……起きたら、もうドレスがケースに入っていて。慣れてるなあって感心しちゃったんですけど」

 クリーニングの手配のためだったんだ。

 一人納得する私を、真夜さんは不思議そうに見つめている。変なこと言ったかな?

「慣れてる、ねぇ。うーん、あれでけっこう不器用なやつよ」

 不器用とは。社長に似合わない言葉ベストスリーに入る気がする。そりゃあ、悪口で言われてきた「恐ろしく器用」は違うんだろうけど。あの人の有能さは、人にそしりを受けるような……例えば『ずるさ』とは、別の種類、別の次元。まっすぐなんだけど、ついていけない人たちには妬みの対象になる。現段階での、私なりの理解。

「……社長の分、持っていきますね」

 二杯目のコーヒーを手に歩き出すと、背中に声がかかった。

「あ、そうだわ、灯里ちゃん」

「はい」

「防弾チョッキのこと、冴木君に『相談に乗ってやってください』って言われてるの。任せて、セクシーなのデザインしてあげるから」

 セクシーな防弾チョッキとは。破壊力の強い言葉に思考が飛びそうになる。ここまでの真夜さんの言動を考えると、冗談にも思えない。「ありがとうございます」と言って、社長のところへ向かった。


「お待たせしました」

「ああ、ありがとう。そこにかけてくれ」

 彼はさっきとは別のUSBメモリをパソコンに挿し、真剣な表情で何かを処理していた。口元の不敵な笑みは、うまくいっている証拠だろうか。仕事に邁進する姿は、とびっきりのいい男。これじゃあ世界中から縁談が舞い込むわけだわ、としみじみ納得する。

 指定された席は、社長から見て斜め右。真正面なら、画面は完全に見えないんだけど。この位置、気を遣うなあ。

「見ても構わないぞ」

「え?」

「その方が、何かと話が早い。お前ならついてこられると思っている」

 手を止めてコーヒーを口に含んだ彼は、婚約者ではなくビジネスマンの顔をしている。

「たとえ今は知らないことでも、無理なく吸収して力に変えていく。意識したことはないんだろうが、驚異的なスピードでな。でなければ、新卒で森戸さんの右腕は務まらない」

 思いもよらない言葉だった。初めて入った会社で、毎日が目まぐるしくて、森戸社長や周りの人たちについていこうと、必死だった。

「森戸さんはな……引き継いだのがあの人でなければ、ここまで続いていない。業界も、あの人だからと信頼して見守っているんだ。それを支えたのが灯里だ。ほんとに、よく頑張ったな」

「社長……」

 潤んだ目を、気合で食い止める。駄目、会社で泣くなんて。

「泣いてもいいぞ。ただし俺の前だけにしろ」

「泣き、ませんっ」

 森戸社長の思いが、今ならわかる。私、役に立ってたんだ……。

続く社長の言葉は、私をさらに驚かせた。

「頭の中が、いつも妙に冷めていると感じたことは?」

「……あります」

 彼はびっくりして固まっている私に「おいで」と手を差し伸べ、画面がよく見える位置に立たせた。自然に腰を抱かれたけど、駄目ですよと制することができない。

 画面に表示されているのは、様々な数値や情勢。彼は私の表情を確認しながら、表示される内容を次々に切り替えた。やがて満足したのか、私を自分の膝に、横向きに座らせた。

「あの、さすがにこれは」

 いやなんじゃなくて、節度の問題。わかってください。この人が、聞くわけないんだけど。

「思った通りだ。これだけのものを見て、まったく顔色が変わらない。先入観や固定観念がない。自分の目で見たものだけを信じている。大切なことだ。加えて、稀有な観察力の持ち主だな」

 穏やかに、一気にそこまで言われて、自分のことだと受け止めるのに時間がかかった。

「私のこと、言ってます?」

「俺の膝に乗って、かわいく肩につかまっているのが、戸倉灯里でなくて誰だと?」

「自分で乗ったんじゃありませんっ」

「ハハッ。こら、暴れるな。また落ちる」

 抱え直されて、笑いかけられたら、今ものすごく抱きつきたいのを我慢するのは難しい。私のこと、そんな風に言い表してくれる人はいなかった。自分で自分を持て余しながらも、人に相談したこともない。「私、いつも冷めてるんです」なんて聞かされて、気分がいい人はいないだろうから。

「ありがとうございます……」

 せめて笑顔で感謝を伝えようとしたら、ポロリと涙が落ちた。

「冷めているのは、観察によって客観的に物事を見ているからだ。悩むところじゃない。灯里に備わった、生きていくための大切な力だ。自信を持て。……な?」

 唇で涙を吸い取った一輝さんは、一生懸命に宥めてくれた。

「はい……」

 昨日から、何度もこの人に救われている。恩返しできるように、頑張って働かなくちゃ。

「まあ……不得手な分野もあるようだがな」

 彼は、謎めいた言葉とともに、私をそっと抱きしめた。




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