心地よい腕の中で気持ちを落ち着け、涙が完全に引っ込んだ時、重要なことに思い至った。広い部屋とはいえ、真夜さんがその一角にいるっていうのに、何やってるの私たちっ。
膝から降りようとする私を、彼はニヤリと笑ってがっしりつかんでいる。
「あの……真夜さんとのお話、途中だったので」
「ほぅ? 気遣いは無用だと思うがな」
「私には必要なんですっ」
強引に降りて、少々乱れた服を整えてから、真夜さんのオフィスへ。ところが、いつの間にか彼女はいなくなっていた。こちらと直接行き来できる扉は、締まって鍵がかかっている。取っ手にメモがかかっていた。
『お先に。また明日ね』
ね、の後にはハートマーク。私の荷物は自分のオフィスに移してあったからいいんだけど、気配も感じさせないって。魔法使いな上に、くノ一?
「言っただろ?」
社長は得意げに、私の耳元で囁いた。あっと思った時にはもう、後ろに立った彼の腕の中。……二人きり。
いやいやいや、廊下に出ればほかの人がいるかもしれないしっ。階下にも休日出勤してる人はいるだろうし! 流されちゃ駄目!
「何、得意になってるんですか……真夜さんが帰ったの、気付いていたんでしょう?」
「気の利く女だからな。仮眠室のシャワーを試す気はあるか?」
やっぱりそっちに話がいくわけ!? 世界を騙すための下地づくりだって、いきなりそれは……いつならいいと聞かれても困るけど!
「……おかげ様で真夜さんとの顔合わせは終わりましたので。つまり、その」
言葉をうまく続けられない。早く帰りましょうと言うのも変。催促してるみたいになる。男の人とここまで深く付き合ったことがないから、いちいち立ち止まって考えてしまう。これは本物のお付き合いじゃないし……。
彼は黙っている。どうして? また拗ねちゃった? 後ろを向いて、顔を見てもいいものだろうか。
「一輝さん……?」
「帰りたいか?」
はい、と答えれば、「早くホテルに帰りましょう」の意味になる。
いいえ、と答えれば、このビルで朝を迎えることになる。
どっちが正しいの? 二人きりの空間で、思考がおかしくなってる。日が沈み、外はどんどん暗くなっていく。気温も下がってきているはずなのに、心がぽかぽかしている。一輝さんのそばは、温かくて安心できる――。
頭がぼーっとしてきて、彼の次の言葉を聞き逃すところだった。
「灯里はどこへ帰る?」
どこ、とは。
「え……ホテル、ですよね? しばらくの間は、って」
自分で言ったじゃない。
「それ以外だと?」
は? 何、この問答。頭がふわふわして、体もふわふわと夢心地になっているところへ、翻訳が必要な問をぶつけられて感情が弾けた。
「アパートですっ。昨日から帰ってなくて、今日も帰れそうにないから新聞たまっちゃうし管理人さんにも心配かけるし! やりかけのパズルの本や読みかけのミステリーも置いてきちゃったし! 再就職が決まったらゆっくり楽しもうと思ってたんですっ。ここのところ気が乗らなくて録画がたまってたドラマも観ておきたいしっ」
「ほぅ。その世代ならドラマは配信かと思っていたが。まぁ、この時代に映画雑誌を紙で読むタイプだからな」
「好きなものは、いつでも観られるように手元に置きたいじゃないですか。配信はいきなり終わることあるし。映画雑誌のスクラップも、久しぶりにできると思ってたのに……」
言いながら気が付いて、途中で声が小さくなった。落ち着いて、灯里。おもしろがる彼のペースに乗せられてる。
「新聞も紙派か」
「活字オタクなんです」
「理性的でありながら本能にも正直。熱狂的な面と冷めた視点を併せ持つ。仕事は徹底的にこなし、臨機応変が持ち味……ふむ。占星学的に興味深いな」
「社長……一輝さんて、星占いが好きなんですか」
意外。話の帰結点なんてとっくにわからなくなっているけど、身じろぎして彼の顔を見上げた。キスしたいのを我慢してるんだ褒めろ、と言いたげな瞳。慌てて目を逸らすと、クスっと笑われた。
「身内に占い師がいてな。その影響だ」
「占い師……。会社の未来を占ってもらったりするんですか?」
彼には必要なさそうだけどな。
「『あんたには私の助けは必要ないでしょ』と言われたことがある」
「やっぱり……」
「こうも言われた。『命を賭けて守ってくれる双子がいるから、大丈夫よ』」
腕の力が強くなった。彼は今、大事なことを伝えようとしている。説明はしてくれない。双子? 占い師さんの言うことなら、何か特別な意味があるのかな。二人の人? ううん、それよりも……「命を賭けて」っていう部分にゾクッとした。比喩? それともこの先、本当に彼の命が危うくなるようなことが起こるの? その時、『双子』は突然現れるんだろうか。私は、どこで何をしているんだろう。契約を解かれている?
――いや。私のいないところで、あなたが危険な目に遭うなんて。
頭をよぎった思いに戸惑う。私に何ができるっていうの。特殊な訓練を受けているわけでもない。セクシーな防弾チョッキで自分を守ることはできても、人を助ける機転も技術もない。私の役目は、偽物の恋を演じること。それ以上は求められていない。
「一輝さん……」
顔が見たいのに、自由を奪われている。禁止したのは私なのに、今この瞬間、たまらなくキスしたい。それができないから、何かを怖がっているような彼の腕を、そっと撫でた。