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第1章第17話

 一輝さんは、ふぅと小さく息を吐き、私を解放した。向かい合うと、私の髪を整えながら優しく尋ねた。

「アパートについて、ほかに気になることは?」

「……アイロン、持ってきたいです」

 何年も壊れずに動いてくれてる優れもの。昨日貸してくれたハンカチを、しわひとつない綺麗な状態で返したいから。と種明かしするとまた捕獲されそうだから、言わない。

「ホテルで貸し出している。それで代用できないか?」

 彼はパソコンの電源を落として帰り支度をさっと済ませ、自分のオフィスへ向かう私の腰を抱いた。うぅ、何を言っても言わなくてもこうなるのね……。頑張れ、灯里。世界を騙すお仕事なんだから。

「なら、アイロンはそれで……。でも、どこかで一回、アパートに行ってもいいですか」

「明日の午後にするか。午前中は、社内の人間に顔を見せておいた方がいい」

「わかりました。助かります」

 自分のお城の扉に鍵をかけて、準備万端。大きな社長室の出口まで来ても、まだ彼は私に密着している。

「あの」

「ん?」

「電気、消しますよ」

「ああ」

「……廊下に出るんですけど」

 だからいったん離れてほしいのっ。『婚約者』のお仕事は、明田部長と幸太と真夜さんしか知らないんでしょ!?

「誰もいないだろう。いても、親父か上の兄だ。休日にふらっと立ち寄ることはある」

「いらしてたらどうするんですか」

「好都合だ。敵を騙すにはまず味方から、だろ?」

「敵って……あっ」

 彼はさっさと電気を消して、私を連れ出してしまった。

「鍵、受け取ったよな? 試してみろ」

「あ、はい」

 一人で来ることもあるだろうからと渡された合鍵で戸締り。うん、大丈夫。彼が離れないことだけが問題。

「次はエレベーターだ。下りる時は認証は必要ないが、ⅠDカードが反応するかどうか確かめておいた方がいい」

「はい」

 ここへこうして……うん、ちゃんと反応する。指紋と網膜が機械の都合で認識されない場合、ロックがかかってしまう。乗り込んでからだと閉じ込められる恐れもあるから(防犯機能の一種だとか)、そういう時はⅠDカードとパスワードで脱出する。今はロックがかかっていないから操作のすべてを練習できるわけじゃないけど、IDカードにエラーが出ないことだけは確かめられた。

「大丈夫そうだな」

 よし、と頷いた顔は、演技に見えない。私のことを考えてくれている。だから、調子が狂うというか……。人間的に好感を持てない人とは、そもそも昨夜の事態に陥っていないと思うし。……駄目! 回想は、キスまででストップ!

 IDカードをしまいながら、頬が火照ってくるのを気合で静めようとしていると、下降を始めたエレベーターの中で肩を抱かれた。ちらっと視線を送ると、いたずらっ子の目をキラキラさせている。防犯カメラを見上げて呟いてみた。

「映画だとよく、エレベーターにも仕掛けをしてますよね。防犯カメラのシステムに入り込んで、嘘の映像を流したり」

 あのカメラの向こうには人がいるんでしょ、と言外に匂わせる。すると彼は、「言いたいことはわかるが」と笑い混じりに唇を寄せてきた。私の耳に。ゆっくりと髪をよけ、顎のラインを指でつーっとなぞりながら囁いたことには、

「心配するな。あれの管理権限は俺にある」

「は? ……警備室の人じゃないんですか」

 耳が、くすぐったくて熱い。

「ほかのエレベーターと違って、ほぼプライベートな空間だからな。よほどのことがない限り、記録された映像を見るのは俺だけだ」

 肩の力が抜けていく。それならまあ……うん。

「先に言ってください」

「知っていれば、止めなかったと?」

 上がってきた時のキスのことだ。まだ拗ねてる。

「あれは、ですね……カメラのことは頭になくて。会社の建物の中で接触しすぎるのはどうかと」

「なぜ」

「なぜ、って」

「今後の参考にするから、具体的に言ってくれ」

 私の制止が緩んだとみて、彼は甘い声と見えない熱で空間を満たし始めた。触れ方が、変わった。

「……何してるんですか」

「言えばやめる」

 ああもう、この人はっ!

「会社、では……仕事に集中したい、ので」

「キスすると集中できないと?」

 当たり前でしょ!

「フ……かわいいな」

「言ったんだから……やめて、くださいっ」

 スカーフを外そうとした手からは逃れたけど、耳の後ろに所有印を付けられてしまった。

「なっ……ここ、隠せないじゃないですかっ」

「髪をおろせばいい」

 一部だけ緩くまとめていた髪。彼の手でスタイルを崩され、ふわりと耳を包んだ。

「綺麗だ。さっきのも好きだが」

 その言葉は胸をくすぐるけど、落ち着かない。

「仕事場で髪を全部おろしたことって、ないんです……」

「ここからはプライベートタイムだ」

「社長はそうでしょうけど」

 あえて肩書で呼ぶ。こっちは一日二十四時間、契約履行のための行動を求められているんだから。

「拗ねるな。夕食は何でも好きなものを付き合うぞ」

「別に拗ねてませんけど……じゃあ……」

 何が食べたいかな、と考えているうちに、エレベーターが止まり、扉が開き、駐車場の中を歩いて車に乗っていた。道路へ出ると、彼は一度、車を脇へ寄せて止めた。ちょうど私は、食べたいものが決まったので伝えようと、彼の方を向いたところだった。

「ンッ!? ……ん」

 優しく、熱く、どこか切ない口づけ。とろんと気分が溶けていく。何を考えていたのか、全部吹っ飛んだ。それこそ、食べられてしまいそうな勢い。彼が満足するまでに、ちょっと……けっこう、時間がかかった。

 やっと体を起こした彼の言い分はこうだった。

「もう会社の中じゃないだろ?」




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