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第2章第2話

 会長の豊宮総一郎そういちろう様とは、別の日にお会いした。制限時間ギリギリで上へ向かうエレベーターに乗った時、閉まりかけた扉の隙間から「戸倉さん」と呼ばれ、「はい」と答えて開くボタンを押した。スッと乗り込んできたのは、これまた長身の、和と洋の美が絶妙に融合した男性。お顔は資料で見て知っていたから、緊張した。

 行き先は、ともに社長室のフロア。そこへ行けるエレベーターはひとつではなく、今乗っているものは途中で社員やお客様が乗り降りすることもある。どれを使おうとも、上三つの階は、指紋と網膜の登録がなければ上がれない。

 上昇を始めた箱の中、会長が柔らかい微笑を私に向けた。相談役の時と同様、名前と、ご挨拶が遅れたお詫びを述べる。

「謝らなくて大丈夫ですよ。私も出ていることが多くてね」

 年商が一輝さんの代で十五倍になったといっても、その前から豊宮グループはすごかった。創業者は相談役のお父様で、手広く事業をやっていた中の一部に、現在の豊宮グループの前身があった。一輝さんのお祖父さんにあたるその人が築いた財――お金だけではなく人脈も――を、義理を欠かさず大切につないできたのが、相談役の二朗様や、この総一郎様だ。後を継いだ人間は、常に先代や創業者と比較される。二代目で持ちこたえられず消えていく企業は、星の数ほどある。

 二朗相談役は三人の男の子に恵まれ、長男が事業を継ぐのは自然な流れだった。総一郎様が長く社長を務めるのだと、外部の人間は誰もが思っていた。優秀すぎる三男は、グループにおさまりきれず飛び出していくのだろうと、予想した人も多いという。寝物語に聞いた話。

 ところが総一郎様は最初から、早いうちに一輝さんに譲ることを決め、家族全員に伝えていた。分散していた海外部門に統括拠点を設けたのは、総一郎様の代。その責任者に就いたのが、次男の正一様。「年商、年商って言うけどな。完璧な地盤を用意してくれたのは兄貴たちだ。それを最大限使って伸ばす。続けていく。俺にはその義務と責任があるんだ」と……私の胸に甘えながら、一輝さんは話してくれた。

「で、大丈夫ですか」

「とおっしゃいますと」

「会話は成立していますか。あいつは言葉を惜しむ癖がありましてね」

 そうですよね!と力説したいのを堪えるため、ひと呼吸置いた。

「私、ミステリーが好きなもので」

「なるほど。ご苦労をかけますが、ゆっくり、根気強く謎を解いてやってください」

「かしこまりました」

 ほんと、謎だらけなんだよねと内心深く頷いた。

 一輝さんの全容は、とてもつかみきれない。激しく燃えて焼き尽くされそうな、灼熱の太陽。炎の中の心を読み取ろうとしても、あえなく溶かされてしまう。全身が砂糖になって、全部あの人に吸われて同化しちゃう……そんな風に感じることさえある。

「一輝は幸せ者だ」

 エレベーターが止まるのと同時に零れた声は、弟思いの優しいお兄さん。ひとまわり下の一輝さんを、子供の頃から慈しんできたことが伝わってくる。あの人が太陽なら、会長は夜空を支配する月。光をしっかり受け止めてくれる存在。豊宮家は兄弟の諍いなどなく、一丸となって、眩しすぎる恒星を守っているんだ。

「おや」

 開いた扉の向こうには、腕組みをして仁王立ちの末っ子。「遅い!」と顔に書いてある。

「節分はとっくに終わったと思ったんだが。ねえ、戸倉さん?」

「さようでございますね……」

 えーん、私に振らないでくださいっ。あなたの弟さんは確かに、鬼と言われても仕方のない形相になってますけど! 

 いい男が怒りを表明するのに大きなアクションはいらない。眉を吊り上げて、無言の圧力をかけるだけでいい。でも仕方ないじゃない。私は今日、三つの部署で「社長のメモが達筆すぎて読めないんですけどわかります?」って呼び止められてきたんですからねっ。字が汚いんじゃなくて、本当に達筆。習得するのが楽しいからって、仕事のメモに草書体を混ぜないでほしい。

 その鬼さんが、フッと表情を緩めた。

「で、感想は?」

「え?」

 どっちに聞いてるの? 会長? 私?

 答えたのは総一郎様だった。

「戸倉さんに言っておいたから、あとで教えてもらうといい。では戸倉さん、鬼をお預けしますよ」

「はい」

 乗ってきた時と同じで、スッと空気を変え、エレベーターホールへ出た総一郎様。薫風、という言葉が浮かんだ。初夏の風。年に何度か、「一年中こんな気候だったらいいな」と思う日がある。爽やかで穏やかな、心地よい一日。総一郎様が纏っているのはそういう空気。

 私もエレベーターから降りて、お見送りをした。揺らぐことのない愛と信頼に満ちた背中。弟たちを信じ、末っ子に未来を託し、成長を待っていたご長男。お約束します。心を込めて、一輝さんのために働きます。

「何を言われたって?」

 私の肩を抱いた一輝さんは、弟の顔。オフィスへ戻りながら考える。

「感想……ですか? そういえば『一輝は幸せ者だ』とおっしゃいましたけど、てっきり独り言かと」

 何の感想かも不明。一輝さんと会話が成立していたのは、さすがとしか言いようがない。

 私の答えに、彼の足取りはスキップみたいに軽くなった。お気に入りの洋楽を口ずさみ、私から受け取った書類を高速で処理していく。うん、ご機嫌がいいのは何よりだよね。ホッとして自分の専用スペースに足を踏み入れ、ハッと気付いて振り返った。

「一輝さん、メモするんでしたら楷書で……あー、遅かった」

 サラサラと流れるように書き込む手つきでわかる。みんなが読めない字が、また増えていく。



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