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第2章第3話

「ん? 何か言ったか。終わったぞ。スキャンしてメールしておく」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 うぅ、ごめんね皆さん。今日も止められませんでした。だってメモを大量に書いている時の一輝さん、楽しそうなんだもの。見とれてしまう。

 スキャンしたあとの書類をまとめておくのは私の仕事。彼のメモは今日も冴えてる。仕事の指示にとどまらず、アドバイスや提案が盛り込まれている。担当者に対して、考え方の助言や、参考になる書籍のタイトルを書くこともある。興が乗ると、好きな映画のセリフも飛び出す。書類を戻す相手の性別や趣味嗜好を考慮した上で。

 社長とのやり取りは普通、緊張するものだと思うけど、この会社ではみんなワクワクして返事を待っている。交換日記のよう。宝物のように大切に保存して、何度も読み返す。

 日本経済も世界経済も、目まぐるしく動く。事業が生まれ、育ち、継承されていく。無数の企業で、大勢の人が働いている。ある企業のたった一人の判断で、路頭に迷う人々が巷に溢れる例もある。働く人たちへの責任を、豊宮の人たちは真剣に考えている。上の人間が自分をしっかり見ていてくれると実感できれば、「ここで頑張っていこう」と思える。一輝さんのメモは、確実にその一助となっている。読めればだけど!

「あ、ここ……インクが掠れてる」

 愛用の万年筆のインク、買い足しておこう。ホテルの下のショッピングモールに大きな文房具屋さんが入っている。このインクの取扱いもあったはず。

「一輝さん。今日、ショッピングモールに寄っていいですか」

 次に目を通してもらいたい書類を手に彼のデスクへ行くと、受け取りながらニヤッと笑った。

「何時に上がれる?」

「それが終われば」

「なら、帰り支度をしていろ。せいぜい十分だ」

「じゅっ……わかりましたっ」

 読みが甘かった。あの量なら三十分、少なくとも二十分はかかると見込んだのに。彼が宣言した時間を過ぎるとお仕置きポイントが発生するのは、初日の出来事で思い知らされてる。今日はすでにポイントがついちゃってるから、せめて加算は免れたい。こうして私の処理能力はまた鍛えられていく。

「ふふっ」

 パソコンの電源を落とし、忘れ物がないか見渡しながら、心が浮き立ってくる。彼と働くのは純粋に楽しい。今日も一日、ジェットコースターに振り落とされることなく終われた、と思う。

「灯里、終わったぞ。出られるか?」

 十分も経たずに自分の身支度まで済ませた一輝さんが、私のオフィスの扉にもたれている。かっこいい……写真に撮って、巨大なポスターにして飾りたい。そういえば坂添記者の件はあれから音沙汰がないけど、どうなったんだろう。

 彼はなぜか困り顔で入ってきて、私の手を取った。

「俺には禁止令を出しておきながら、会社でそういう顔を見せるのはどうかと思うぞ」

 部屋の空気がピンク色に変わり始める。禁止令って、草書は避けてくださいじゃなくてアレのことかな。キス。ということは私は今、写真に撮られたああいう顔をしてる!?

「あ、あのっ、とりあえず出ましょう!」

 彼を引っ張るようにして、エレベーターホールへ。ボタンを押して待つ間、手を握りっぱなし。お互いの意図するところは異なる。私は早く外へ出て、緩んだ頬を引き締めるため。やっぱりこの二人きりの空間がいけないのよ。車だって二人だけど……。

 一輝さんが手を離さないのは、誰に見られても構わないと思っているから。むしろ見られたい。見せびらかしたい。それが目的で私をそばに置いているんだもの。

「あ……来ましたね」

 エレベーターの到着をひと足先に告げるランプが灯った。

「今日もありがとう。おかげで早く終わった」

「もともと驚異的に早いじゃないですか。でも、よかったです」

 社長にありがとうなんて言われて、嬉しくない社員はいない。褒め言葉はただ聞いておくのがいいっていうけど、彼には素直になりたいから、照れ隠しはやめて微笑んだ。彼もふわりと笑って、ここからは甘いメリーゴーランドの時間……。

「あ」

 エレベーターの扉が開く寸前、幼馴染の声が聞こえた。あああ、ここまだ会社だった! 幸太の隣には明田部長。彼らはこのフロアにも出入り自由。相談役のお部屋の方から歩いてきた。一瞬手を離した一輝さんは、するりと指を絡めて恋人つなぎに変え、二人によく見えるように掲げた。やめてー!

「あとは頼む」

 明田さんは温和な笑みを浮かべ、幸太は私にひらひらと手を振った。今日もあったかーく見守られてしまった。

「お、お疲れ様ですっ」

 彼に引っ張られながら、ホールとエレベーターとの境で声を投げた。勢い余って足が浮く。転ぶっ……。

「あ……」

 背後で扉が閉まった。私は、温かく力強い腕の中。

「着地成功。加算ありだ」

「体操ですか。ふふっ」

 幸せそうな王様に、百パーセントの笑顔を返す。この中は、安全だから。多少恥ずかしいことがあっても、防犯カメラの映像を見ることができるのは彼だけ。受け止めてくれたあと、自然な流れで抱きしめてきた手を、振り払おうとは思わない。



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