「ん? 何か言ったか。終わったぞ。スキャンしてメールしておく」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
うぅ、ごめんね皆さん。今日も止められませんでした。だってメモを大量に書いている時の一輝さん、楽しそうなんだもの。見とれてしまう。
スキャンしたあとの書類をまとめておくのは私の仕事。彼のメモは今日も冴えてる。仕事の指示にとどまらず、アドバイスや提案が盛り込まれている。担当者に対して、考え方の助言や、参考になる書籍のタイトルを書くこともある。興が乗ると、好きな映画のセリフも飛び出す。書類を戻す相手の性別や趣味嗜好を考慮した上で。
社長とのやり取りは普通、緊張するものだと思うけど、この会社ではみんなワクワクして返事を待っている。交換日記のよう。宝物のように大切に保存して、何度も読み返す。
日本経済も世界経済も、目まぐるしく動く。事業が生まれ、育ち、継承されていく。無数の企業で、大勢の人が働いている。ある企業のたった一人の判断で、路頭に迷う人々が巷に溢れる例もある。働く人たちへの責任を、豊宮の人たちは真剣に考えている。上の人間が自分をしっかり見ていてくれると実感できれば、「ここで頑張っていこう」と思える。一輝さんのメモは、確実にその一助となっている。読めればだけど!
「あ、ここ……インクが掠れてる」
愛用の万年筆のインク、買い足しておこう。ホテルの下のショッピングモールに大きな文房具屋さんが入っている。このインクの取扱いもあったはず。
「一輝さん。今日、ショッピングモールに寄っていいですか」
次に目を通してもらいたい書類を手に彼のデスクへ行くと、受け取りながらニヤッと笑った。
「何時に上がれる?」
「それが終われば」
「なら、帰り支度をしていろ。せいぜい十分だ」
「じゅっ……わかりましたっ」
読みが甘かった。あの量なら三十分、少なくとも二十分はかかると見込んだのに。彼が宣言した時間を過ぎるとお仕置きポイントが発生するのは、初日の出来事で思い知らされてる。今日はすでにポイントがついちゃってるから、せめて加算は免れたい。こうして私の処理能力はまた鍛えられていく。
「ふふっ」
パソコンの電源を落とし、忘れ物がないか見渡しながら、心が浮き立ってくる。彼と働くのは純粋に楽しい。今日も一日、ジェットコースターに振り落とされることなく終われた、と思う。
「灯里、終わったぞ。出られるか?」
十分も経たずに自分の身支度まで済ませた一輝さんが、私のオフィスの扉にもたれている。かっこいい……写真に撮って、巨大なポスターにして飾りたい。そういえば坂添記者の件はあれから音沙汰がないけど、どうなったんだろう。
彼はなぜか困り顔で入ってきて、私の手を取った。
「俺には禁止令を出しておきながら、会社でそういう顔を見せるのはどうかと思うぞ」
部屋の空気がピンク色に変わり始める。禁止令って、草書は避けてくださいじゃなくてアレのことかな。キス。ということは私は今、写真に撮られたああいう顔をしてる!?
「あ、あのっ、とりあえず出ましょう!」
彼を引っ張るようにして、エレベーターホールへ。ボタンを押して待つ間、手を握りっぱなし。お互いの意図するところは異なる。私は早く外へ出て、緩んだ頬を引き締めるため。やっぱりこの二人きりの空間がいけないのよ。車だって二人だけど……。
一輝さんが手を離さないのは、誰に見られても構わないと思っているから。むしろ見られたい。見せびらかしたい。それが目的で私をそばに置いているんだもの。
「あ……来ましたね」
エレベーターの到着をひと足先に告げるランプが灯った。
「今日もありがとう。おかげで早く終わった」
「もともと驚異的に早いじゃないですか。でも、よかったです」
社長にありがとうなんて言われて、嬉しくない社員はいない。褒め言葉はただ聞いておくのがいいっていうけど、彼には素直になりたいから、照れ隠しはやめて微笑んだ。彼もふわりと笑って、ここからは甘いメリーゴーランドの時間……。
「あ」
エレベーターの扉が開く寸前、幼馴染の声が聞こえた。あああ、ここまだ会社だった! 幸太の隣には明田部長。彼らはこのフロアにも出入り自由。相談役のお部屋の方から歩いてきた。一瞬手を離した一輝さんは、するりと指を絡めて恋人つなぎに変え、二人によく見えるように掲げた。やめてー!
「あとは頼む」
明田さんは温和な笑みを浮かべ、幸太は私にひらひらと手を振った。今日もあったかーく見守られてしまった。
「お、お疲れ様ですっ」
彼に引っ張られながら、ホールとエレベーターとの境で声を投げた。勢い余って足が浮く。転ぶっ……。
「あ……」
背後で扉が閉まった。私は、温かく力強い腕の中。
「着地成功。加算ありだ」
「体操ですか。ふふっ」
幸せそうな王様に、百パーセントの笑顔を返す。この中は、安全だから。多少恥ずかしいことがあっても、防犯カメラの映像を見ることができるのは彼だけ。受け止めてくれたあと、自然な流れで抱きしめてきた手を、振り払おうとは思わない。