「さて」
「はい」
下降する鉄の箱の中、ぴったりくっついたままでの会話。
「俺のやることが驚異的に早いのは客観的事実だが」
「はぁ」
「今までは、ただ終わらせてきた。今は、早く終わらせたい。この違いがわかるか?」
「それは……今日は、私がお買い物をしたいとお願いしたからで」
「そうだ。灯里と過ごす時間を増やしたい」
金色と薄紅色と真紅で彩られているような声に顔を上げれば、彼の目元はほんのり赤い。社長から一人の男の人へと変化していく特別な時間。蛙の王子様的な。ちょっと違うか。私は本物のお姫様じゃないしね。
「会社でも一緒なのに」
寂しい気持ちをごまかすそうと顔を隠すと、大きな手が頭に触れた。
「会社ではゆっくりさせてやれない。禁止令もあるしな」
心が揺れる。実は今では、このエレベーターの中に限りOKにしようかなとこっそり考えている。言い出せないのと、結果が怖いから、禁止令を解除していないけど。
それより、彼の今の言葉。物凄く恥ずかしい。「会社を一歩出れば、キスのひとつやふたつ文句は言わないよな?」って確認しているのも同じなんだもの。こうやってくっつくのも、もっと深くお互いに触れることにも慣れてきたけど、ツボを心得た彼の言葉選びには毎回、脳がぐにゃぐにゃになる。
「うぅぅ」
ロマンチックには程遠い意味不明の声さえも、彼は慈しんでくれる。
「かわいい、灯里」
「もうその辺で勘弁してください……」
コートが皺になるんじゃないかっていうくらい、ぎゅっと握ってしまう。ああ駄目、理性が急速にゼロに近付いていく。しっかりしなさい戸倉灯里!
これはもしかして、顔を伏せているのがまずいのでは。耳は無防備。視界を遮っている分、甘さがダイレクトに脳に届いて掻き回す。じゃあ顔を見ればいいんじゃない?
パッと顔を上げて、失敗を悟った。ぐわっとオーラに飲み込まれる。生来の迫力と、積み重ねてきた人たらしスキルに加えて、私にふんだんに振りかける魔法の粉。一輝さん、あなたの目はなぜそんなに優しいの? 百年も探していた恋人に巡り会えた、みたいな……。
「降りるぞ。それとも、ここに百年閉じこもって二人で眠るか?」
「え?」
心の声を口に出していたのかと、ドキッとした。そうではなくて、エレベーターはとっくに下へ着いて扉が開いてる。
「すみません……」
「かわいいからいい」
壁から背を離した彼は、私に追い打ちをかけながら駐車場へと誘った。私の肩を抱いて、にこにこ顔で。ルンルンって言ってもいいくらい。漫画なら頭の上で音符が躍りそう。
「二人で寝ちゃったら、誰が起こすんですか?」
黙ってると、ぷしゅっと音がしてパンクしそうだから、おとぎ話絡みの会話を続ける。
「先に起きた方だろ? キスを忘れずにな」
「二人とも起きなかったら?」
「あと百年、一緒に寝よう」
「脳みそが溶けてなくなっちゃいそうです」
使う人が限られている駐車場だから、気にせずポンポン言葉が飛ぶ。ひと言ひと言を、胸の中のアルバムに貼り付ける。契約終了後も、何年経っても、この楽しかった時間を大事に思い出したいから。
「俺は灯里と一緒なら、呪いで千年眠らされてもいい」
「え?」
真剣な声。助手席のドアを開けながら首を傾げると、彼は苦笑して運転席に乗り込んだ。私も乗り、また密室。運転が大好きな一輝さんは、いつもなら「待たせたな」って声をかけるみたいに車を撫でてあげるのに、それがない。言うつもりのないことを言ってしまった? 引っ込みがつかなくて困っているように見える。
彼の言葉をなぞるように、口に出してみた。
「千年、一緒に眠ったら……もう」
途中で止めたのは、ギリギリの理性。危なかったー!
――もう離れないでいられますか?
今、私は確かにそう言いかけた。何考えてるのっ。
「『もう』……そのあとは?」
ぼんやりしていた彼が、救いを見出したかのようにこっちを見た。駄目、この空気はやばい! 説明できないけど!
まだベルトをしていなかったから、彼の方へ体をずらして抱き寄せた。これなら顔は見えない。頭を抱いて優しく撫でると、彼は固まってしまった。
「あか、り……?」
「ええと、さっき言おうとしたことは何だか飛んじゃったんですけど、まだこれ言ってなかったので……今日も一日、お疲れ様でした」
私のかわいい、かわいい人。
労わってあげたくて、髪の生え際に唇を押し当ててから解放すると、彼はくたっとハンドルに突っ伏してしまった。
「……一分くれ」
その夜、一輝さんはこれまでで一番、甘えん坊だった。
このままそれらしく振る舞って、噂が広まるのを待っていればいいのかなと……油断し始めた頃、それは起こった。
「結婚してください」
騒めき。周囲のお客さんと店員さんの視線が一気に集まる。先月の十四日と同じお店の、同じ席。あの時に見かけたカップルも何組かいる。私の前で燦然と輝きを放っているのは、繊細なデザインのダイヤの指輪と一輝さん。飲み物を選んだあと、黙って私を見つめているから何かと思ったら、手品のように取り出した小さなケースの蓋を開けて……プロポーズ。偽物の。
「あれ、豊宮一輝じゃないか」
「え? あの豊宮グループの!? ほんとだ……うわー、何かオーラ出てる。かっこいい……」
「ショックー。ついに結婚するんだ」
「お前、俺の前でそれ言うかー。でもあの人、ほんとかっこいいんだよな」
ささめきが広がる。これが彼の狙い。飾り気のない言葉や王道の演出で、自分は指輪を贈る相手がいるんだとアピールする。あとは、疑いようのない場面を目撃した人たちが広めてくれるというわけ。
この場合、保留や否定は選択肢にない。イエスと返事をするのが私の役目。私の仕事。
ほら、灯里。文字のない台本だけど、ここは簡単でしょ。
なのに。
喉の奥に何かが詰まって、声が出ない。膝に置いた手が震えてる。