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第2章第4話

「さて」

「はい」

 下降する鉄の箱の中、ぴったりくっついたままでの会話。

「俺のやることが驚異的に早いのは客観的事実だが」

「はぁ」

「今までは、ただ終わらせてきた。今は、早く終わらせたい。この違いがわかるか?」

「それは……今日は、私がお買い物をしたいとお願いしたからで」

「そうだ。灯里と過ごす時間を増やしたい」

 金色と薄紅色と真紅で彩られているような声に顔を上げれば、彼の目元はほんのり赤い。社長から一人の男の人へと変化していく特別な時間。蛙の王子様的な。ちょっと違うか。私は本物のお姫様じゃないしね。

「会社でも一緒なのに」

 寂しい気持ちをごまかすそうと顔を隠すと、大きな手が頭に触れた。

「会社ではゆっくりさせてやれない。禁止令もあるしな」

 心が揺れる。実は今では、このエレベーターの中に限りOKにしようかなとこっそり考えている。言い出せないのと、結果が怖いから、禁止令を解除していないけど。

 それより、彼の今の言葉。物凄く恥ずかしい。「会社を一歩出れば、キスのひとつやふたつ文句は言わないよな?」って確認しているのも同じなんだもの。こうやってくっつくのも、もっと深くお互いに触れることにも慣れてきたけど、ツボを心得た彼の言葉選びには毎回、脳がぐにゃぐにゃになる。

「うぅぅ」

 ロマンチックには程遠い意味不明の声さえも、彼は慈しんでくれる。

「かわいい、灯里」

「もうその辺で勘弁してください……」

 コートが皺になるんじゃないかっていうくらい、ぎゅっと握ってしまう。ああ駄目、理性が急速にゼロに近付いていく。しっかりしなさい戸倉灯里! 

 これはもしかして、顔を伏せているのがまずいのでは。耳は無防備。視界を遮っている分、甘さがダイレクトに脳に届いて掻き回す。じゃあ顔を見ればいいんじゃない? 

 パッと顔を上げて、失敗を悟った。ぐわっとオーラに飲み込まれる。生来の迫力と、積み重ねてきた人たらしスキルに加えて、私にふんだんに振りかける魔法の粉。一輝さん、あなたの目はなぜそんなに優しいの? 百年も探していた恋人に巡り会えた、みたいな……。

「降りるぞ。それとも、ここに百年閉じこもって二人で眠るか?」

「え?」

 心の声を口に出していたのかと、ドキッとした。そうではなくて、エレベーターはとっくに下へ着いて扉が開いてる。

「すみません……」

「かわいいからいい」

 壁から背を離した彼は、私に追い打ちをかけながら駐車場へと誘った。私の肩を抱いて、にこにこ顔で。ルンルンって言ってもいいくらい。漫画なら頭の上で音符が躍りそう。

「二人で寝ちゃったら、誰が起こすんですか?」

 黙ってると、ぷしゅっと音がしてパンクしそうだから、おとぎ話絡みの会話を続ける。

「先に起きた方だろ? キスを忘れずにな」

「二人とも起きなかったら?」

「あと百年、一緒に寝よう」

「脳みそが溶けてなくなっちゃいそうです」

 使う人が限られている駐車場だから、気にせずポンポン言葉が飛ぶ。ひと言ひと言を、胸の中のアルバムに貼り付ける。契約終了後も、何年経っても、この楽しかった時間を大事に思い出したいから。

「俺は灯里と一緒なら、呪いで千年眠らされてもいい」

「え?」

 真剣な声。助手席のドアを開けながら首を傾げると、彼は苦笑して運転席に乗り込んだ。私も乗り、また密室。運転が大好きな一輝さんは、いつもなら「待たせたな」って声をかけるみたいに車を撫でてあげるのに、それがない。言うつもりのないことを言ってしまった? 引っ込みがつかなくて困っているように見える。

 彼の言葉をなぞるように、口に出してみた。

「千年、一緒に眠ったら……もう」

 途中で止めたのは、ギリギリの理性。危なかったー!

 ――もう離れないでいられますか?

 今、私は確かにそう言いかけた。何考えてるのっ。

「『もう』……そのあとは?」

 ぼんやりしていた彼が、救いを見出したかのようにこっちを見た。駄目、この空気はやばい! 説明できないけど! 

 まだベルトをしていなかったから、彼の方へ体をずらして抱き寄せた。これなら顔は見えない。頭を抱いて優しく撫でると、彼は固まってしまった。

「あか、り……?」

「ええと、さっき言おうとしたことは何だか飛んじゃったんですけど、まだこれ言ってなかったので……今日も一日、お疲れ様でした」

 私のかわいい、かわいい人。

 労わってあげたくて、髪の生え際に唇を押し当ててから解放すると、彼はくたっとハンドルに突っ伏してしまった。

「……一分くれ」

 その夜、一輝さんはこれまでで一番、甘えん坊だった。


 このままそれらしく振る舞って、噂が広まるのを待っていればいいのかなと……油断し始めた頃、それは起こった。


「結婚してください」

 騒めき。周囲のお客さんと店員さんの視線が一気に集まる。先月の十四日と同じお店の、同じ席。あの時に見かけたカップルも何組かいる。私の前で燦然と輝きを放っているのは、繊細なデザインのダイヤの指輪と一輝さん。飲み物を選んだあと、黙って私を見つめているから何かと思ったら、手品のように取り出した小さなケースの蓋を開けて……プロポーズ。偽物の。

「あれ、豊宮一輝じゃないか」

「え? あの豊宮グループの!? ほんとだ……うわー、何かオーラ出てる。かっこいい……」

「ショックー。ついに結婚するんだ」

「お前、俺の前でそれ言うかー。でもあの人、ほんとかっこいいんだよな」

 ささめきが広がる。これが彼の狙い。飾り気のない言葉や王道の演出で、自分は指輪を贈る相手がいるんだとアピールする。あとは、疑いようのない場面を目撃した人たちが広めてくれるというわけ。

 この場合、保留や否定は選択肢にない。イエスと返事をするのが私の役目。私の仕事。

 ほら、灯里。文字のない台本だけど、ここは簡単でしょ。

 なのに。

 喉の奥に何かが詰まって、声が出ない。膝に置いた手が震えてる。



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