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第2章第5話

 ぽろり。ぽろぽろっ。

 あれ……? 私、泣いてる? 真っ白なテーブルクロスに染みができてしまった。一輝さんにもらったハンカチを出すより早く、彼が自分のを渡してくれた。拭いても拭いて止まらなくて、何分間か、言葉もなく涙を吸わせ続けた。

「あー、あの子泣いちゃった」

「感激してるんじゃないの?」

「何だか深刻な雰囲気……」

「えー、豊宮さん振られちゃうの? かわいそう」

 周囲の声が重なって、言語から音になっていく。目を開けても、周りの物や人はぼやけて、指輪と一輝さんしか認識できない。

 ――結婚してください。

 駄目ですよ。その言葉は、いつか現れる本物のお姫様のためにとっておかないと。彼女は、深い眠りの中か過酷な旅の途中か、とにかく今はまだあなたに会えずにいるけど、必ず出会えるから。

 一輝さん。私、世の中をそう広く知っているわけじゃないけど、あなたが素晴らしい人だということはわかります。優しくてあったかくて、持てる力を外へ向けて最大限使ってる。「能力、環境、運……恵まれた境遇にある者は、その分、責務も課せられている。灯里もだ。俺が支えるから、自分の道をゆっくり考えてみるといい」と言ってくれましたね。嬉しかった。

 自分のことはまだよくわからないけど、あなたには本当に幸せになってほしいんです。大勢の求婚者が押し合いへし合いしてたら、お姫様は出てこられないかもしれません。私がみんなの足留めをしておくから……まだ一か月だけど、だんだん効果が表れるから。私に嘘の求婚をするなんて大仕掛け、慌てて披露しなくてもいいんですよ……。

 お姫様だけじゃない。プロポーズは、あなたにとっても大切な瞬間。一生に一度のものとして、大事にしてほしい。私が聞いちゃいけない。指輪も、私が受け取っちゃいけないのに……。

 ああ、また思考がおかしい。勝手に一輝さんに夢を見て、おとぎ話を押し付けてる。

 ひとしきり泣いたら、自分が恥ずかしくなってきた。姿勢を正し、ハンカチを畳み直して膝に置いた。お化粧はそれほど崩れていないはず。

「泣いちゃって、すみません」

「いや。大丈夫か?」

「何かいろいろ溢れ出しちゃって。もう大丈夫です」

 さあ、舞台の中央に復帰。返事をするのよ、返事を。

 好奇の目に晒されている一輝さんの表情は、この前車の中で見せたのと同じ色。あるとは思っていなかった救いに、手を伸ばしていいのかどうか決めかねている。

「指輪の内側を見てくれるか」

「はい」

 ケースごと引き寄せて、慎重に向きを変えて中を覗くと、刻印が見えた。

『K to A   Always with you』

「これ……」

 Loveとあったら、受け取れないと思った。Foreverも、嘘になるから切ない。それに比べてこれは、私たちの合言葉みたいなもの。

 ――俺から離れるな。

 あの約束を、今日までどちらも違えていない。これなら……返事をしても嘘にはならないよね。「契約期間中は」って頭につくけど。

 彼の目を、まっすぐに見た。

「灯里。頼む。俺と一緒にいてほしい」

 はい、もちろんです。

 私は頷いて、彼は「ありがとう」と言った。左手の薬指に、契約の小道具がはめられていく。祝福の拍手が耳に飛び込んでくる。

 ホワイトデーのディナーの席で、周囲の幸せなカップルに見守られ、私たちは大きな嘘を演じた。


 指輪のサイズは、ぴったりだった。あつらえたようにとは、正にこのこと。

「よくわかりましたね、サイズ。私も知らなかったのに」

「毎日触れていれば……な」

 ベッドの上で絡まる指。すりすりと撫でてみても、彼が何号かなんて見当もつかない。

「灯里」

「ふふっ。一輝さんには何でもわかっちゃうんですね、私のこと」

「煽ると眠れなくなるぞ。いいのか?」

「えー、煽ってません……ちょっと、あの」

 再開された行為は砂糖よりも甘くて、頭の奥まで溶けていく。

「悪い子にはお仕置きが必要だな」

「そう言って、いつも優しくするくせに……」

 私は本当に、悪い子かもしれない。純粋に恋の成就を願う人たちでいっぱいのレストランで、プロポーズを受ける振りをした。神聖な夜に、染みを残してしまった。

 同時に、私の中に生まれたものもある。少しばかりの自信と安心感。私たちなりの真実。仕事のやり方は相性がいいと思うし、真夜さんみたいに異性の友人になれたら楽しそう。どんな形でもいいからそばにいたいという、口に出すことは許されないと思っていた願い。それだけは、望んでもいいのかもしれない。

「一輝さん」

「ん?」

「指輪、私……ずっと持っててもいい?」

「当たり前だろ。何を聞くかと思えば……あのな」

 こつん

 額がくっついて、彼の汗が私のと混ざった。

「よく聞けよ。俺はその言葉を、灯里にしか贈らない」

「……うん。嬉しい、一輝さん……」

「やっと理解したか……?」

 まだ疑問符を付けながら、私を未知の世界へと誘う。忘れられない夜が増えていく。体が重なり、私たちが生きてきた時間までもひとつになる。

「明日、お休みだから……眠れなくてもいいから」

「こいつ……」

 これからの時間も、あなたと私、重なっていきますように――。



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