ぽろり。ぽろぽろっ。
あれ……? 私、泣いてる? 真っ白なテーブルクロスに染みができてしまった。一輝さんにもらったハンカチを出すより早く、彼が自分のを渡してくれた。拭いても拭いて止まらなくて、何分間か、言葉もなく涙を吸わせ続けた。
「あー、あの子泣いちゃった」
「感激してるんじゃないの?」
「何だか深刻な雰囲気……」
「えー、豊宮さん振られちゃうの? かわいそう」
周囲の声が重なって、言語から音になっていく。目を開けても、周りの物や人はぼやけて、指輪と一輝さんしか認識できない。
――結婚してください。
駄目ですよ。その言葉は、いつか現れる本物のお姫様のためにとっておかないと。彼女は、深い眠りの中か過酷な旅の途中か、とにかく今はまだあなたに会えずにいるけど、必ず出会えるから。
一輝さん。私、世の中をそう広く知っているわけじゃないけど、あなたが素晴らしい人だということはわかります。優しくてあったかくて、持てる力を外へ向けて最大限使ってる。「能力、環境、運……恵まれた境遇にある者は、その分、責務も課せられている。灯里もだ。俺が支えるから、自分の道をゆっくり考えてみるといい」と言ってくれましたね。嬉しかった。
自分のことはまだよくわからないけど、あなたには本当に幸せになってほしいんです。大勢の求婚者が押し合いへし合いしてたら、お姫様は出てこられないかもしれません。私がみんなの足留めをしておくから……まだ一か月だけど、だんだん効果が表れるから。私に嘘の求婚をするなんて大仕掛け、慌てて披露しなくてもいいんですよ……。
お姫様だけじゃない。プロポーズは、あなたにとっても大切な瞬間。一生に一度のものとして、大事にしてほしい。私が聞いちゃいけない。指輪も、私が受け取っちゃいけないのに……。
ああ、また思考がおかしい。勝手に一輝さんに夢を見て、おとぎ話を押し付けてる。
ひとしきり泣いたら、自分が恥ずかしくなってきた。姿勢を正し、ハンカチを畳み直して膝に置いた。お化粧はそれほど崩れていないはず。
「泣いちゃって、すみません」
「いや。大丈夫か?」
「何かいろいろ溢れ出しちゃって。もう大丈夫です」
さあ、舞台の中央に復帰。返事をするのよ、返事を。
好奇の目に晒されている一輝さんの表情は、この前車の中で見せたのと同じ色。あるとは思っていなかった救いに、手を伸ばしていいのかどうか決めかねている。
「指輪の内側を見てくれるか」
「はい」
ケースごと引き寄せて、慎重に向きを変えて中を覗くと、刻印が見えた。
『K to A Always with you』
「これ……」
Loveとあったら、受け取れないと思った。Foreverも、嘘になるから切ない。それに比べてこれは、私たちの合言葉みたいなもの。
――俺から離れるな。
あの約束を、今日までどちらも違えていない。これなら……返事をしても嘘にはならないよね。「契約期間中は」って頭につくけど。
彼の目を、まっすぐに見た。
「灯里。頼む。俺と一緒にいてほしい」
はい、もちろんです。
私は頷いて、彼は「ありがとう」と言った。左手の薬指に、契約の小道具がはめられていく。祝福の拍手が耳に飛び込んでくる。
ホワイトデーのディナーの席で、周囲の幸せなカップルに見守られ、私たちは大きな嘘を演じた。
指輪のサイズは、ぴったりだった。あつらえたようにとは、正にこのこと。
「よくわかりましたね、サイズ。私も知らなかったのに」
「毎日触れていれば……な」
ベッドの上で絡まる指。すりすりと撫でてみても、彼が何号かなんて見当もつかない。
「灯里」
「ふふっ。一輝さんには何でもわかっちゃうんですね、私のこと」
「煽ると眠れなくなるぞ。いいのか?」
「えー、煽ってません……ちょっと、あの」
再開された行為は砂糖よりも甘くて、頭の奥まで溶けていく。
「悪い子にはお仕置きが必要だな」
「そう言って、いつも優しくするくせに……」
私は本当に、悪い子かもしれない。純粋に恋の成就を願う人たちでいっぱいのレストランで、プロポーズを受ける振りをした。神聖な夜に、染みを残してしまった。
同時に、私の中に生まれたものもある。少しばかりの自信と安心感。私たちなりの真実。仕事のやり方は相性がいいと思うし、真夜さんみたいに異性の友人になれたら楽しそう。どんな形でもいいからそばにいたいという、口に出すことは許されないと思っていた願い。それだけは、望んでもいいのかもしれない。
「一輝さん」
「ん?」
「指輪、私……ずっと持っててもいい?」
「当たり前だろ。何を聞くかと思えば……あのな」
こつん
額がくっついて、彼の汗が私のと混ざった。
「よく聞けよ。俺はその言葉を、灯里にしか贈らない」
「……うん。嬉しい、一輝さん……」
「やっと理解したか……?」
まだ疑問符を付けながら、私を未知の世界へと誘う。忘れられない夜が増えていく。体が重なり、私たちが生きてきた時間までもひとつになる。
「明日、お休みだから……眠れなくてもいいから」
「こいつ……」
これからの時間も、あなたと私、重なっていきますように――。