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第2章第6話

 翌朝。というか、午前中の終わり。着替えの時にこっそり「豊宮一輝」を検索すると、サジェストに「結婚」「婚約」「お相手」などが出てきた。

「気になるか?」

「え? あ、まだ入っちゃ駄目ですからねっ」

 私が寝室の方で身支度をしている時は、覗かないこと! ホテル暮らしを始めた時、いくつかルールを決めた中のひとつ。

「俺の方のクローゼットに今日使いたいネクタイがあるから、取ってくれ」

 そうそう、今日は一件お仕事入っちゃったんだよね。

 言われた通りに左から何番目の……と探しながら、はたと気付いた。

「何を見てるか、わかったの?」

 ご指定のネクタイを渡して尋ねると、おでこにキスして「朝から何ともかわいいな」と言われた。

「答えになってませんっ」

「ハハッ」

 軽やかにリビングに去り、結局答えはなし。

「もう……。とっくに、朝じゃないし」

 リビングとの境のドアをぴったりと閉め、着替えの続き。鏡で見たところ、昨日から急激にかわいく変わった部分はない。

「言葉遣いかな?」

 敬語が崩れてきてる。上下を意識しない口調だと、二割増しくらいで子供っぽくなってしまう。

「少しくらい、いいよね?」

 鏡の自分に問いかける。彼女は照れている。

 一輝さんとは、昨日の夕方までよりも明らかに距離が近くなった。指輪もあるし、SNSで拡散されて海外に伝わるのも時間の問題だろう。ちょっと怖いけど、彼を信じてついていく。


 週明けの出社は、最初は緊張した。ホワイトデーの偽プロポーズ後、私たちの噂は、変な言い方だけど順調に広まっている。「初めから社長の交際相手として入り込んできたのか?」とか、「財産目当てで近付いたのか?」とか、いろいろ言いたい人がいてもおかしくない。

 ところが、社内の人たちの態度は変わらなかった。明るく和やか。「婚約おめでとう!」と声をかけられることはあっても、冷たい目を向けられることはない。バレンタインのチョコを受け取ってもらえなかった女性社員たちも、「戸倉さんじゃ、しょうがないよね。完敗!」「ほんとだよね。社長、見る目あるじゃない」と祝福してくれた。にこやかにお礼を言いつつ、馴れ初めを掘り下げられないよう、あっちからこっちへと仕事に飛び回る。日々はキラキラと過ぎていく。

 質問攻めにあいそうな時は、ありのままを大雑把に話すことになっている。「幼馴染の幸太の縁で」と言えば、あとは相手が都合よく想像するからと。真夜さんのアドバイスに、幸太も「任せとけ」と乗ってくれた。彼は女性たちの質問箱になり、私と一輝さんの防波堤を務めてくれている。それはとてもありがたくて助かっているから、三月下旬、下のフロアで幸太とばったり会った時にお礼を伝えた。

「ありがとね。ほんと、助かってる」

「お互い様だって。俺も灯里がいてくれて、仕事が随分楽になった。前は、上とこっちをしょっちゅう行き来してたからさ」

「そっかー。それは大変だったね」

「みんなで額を集めて、メモの解読したりな」

「あー、あれね」

 その場面が想像できて微笑ましい。もらった相手がいやな気持ちになることは書かない人だから、頑張って読みたくなるんだよね。

「灯里はああいうの好きだもんな。考えてみれば、これ以上ない適任なんだよなあ」

「特殊技能?」

「そういうこと。……あ」

 幸太の視線を追うと、立っているだけで絵のように決まる私の婚約者さんがいた。

「じゃあな。あとでデータ送るけど、急ぎじゃないから」

「うん、よろしくね」

 別の方向へ行く幸太を見送りつつ、一輝さんのもとへ急いだ。上で私を待つと言ってたのに、どうしたんだろう。制限時間にはまだ余裕があるはずだし……。

「お待たせしました。……えっ?」

 連れ込まれたのは、空いていた面談室。後ろ手に鍵をかけた彼は、息もできないほど強く私を抱きしめた。

 何これ、どういうこと? 私が下にいる間に、何かあった?

「一輝さん、どうしました?」

 悲しいの? 怖いの? あなたが? 一体何があったの? 言ってくれないとわからないよ……。

「息が止まるかと思った」

 苦しそうな声。いや、息が止まりそうなのはこっちなんですけど! 

 まさか、いつかのように体調が悪い? 

「病院行きますか? 今ならまだ受付時間……」

「そうじゃない。……冴木だ」

 冴木って。熱はなさそうだけど呼吸が乱れてるし、ああもう何なの!?

「幸太が何か? ね、言ってください。一輝さん……」

「言っても怒らないか? いや、怒るだろうな」

「意味がわかりません。怒られるようなことしたんですか」

 ぎゅうぎゅうと力を込めてくるところをみると、よっぽど言いたくないらしい。

「自分がこんなに情けない人間だとは思わなかった」

「別に情けなくないですから、ほら、私怒ってないですから顔見てください」

 お願いだから、顔が見える程度に力を緩めてー!

「俺を引っ叩くかもしれない」

「は? あり得ないですから。ふふ、どんなお痛をしたんだか……」

 くっついているうちに、何を聞いても許せる気がしてきた。トクン、トクンと鼓動が伝わってくる。行き場のない手であやすように、トントンと胸を叩くと、ようやく離してくれた。お互いの髪を直して、見つめ合う。

「ね? 私、怒ってないでしょ?」

 それどころか、今度は私が抱きしめたくなってる。しゅんと眉が下がって、私に嫌われるんじゃないかと恐れている一輝さん。こんな顔見せてくれるようになったんだ。

 抱き寄せようとして、彼の言葉で手が止まった。

「妬いたんだ……冴木に」

 はあ!?



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