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第2章第7話

「焼きもちですか……」

「すまない……」

 びっくりした。幸太との仲を疑われたことも、一輝さんが素直に謝ったことも。

「うーん、何ていうか。まあ、とりあえず」

 彼の頭を包んで、よしよしと慰めた。

「灯里……」

 腕にしがみついてくるのが、小さな男の子みたい。星吾が上手に謝れない時、こんな風だったなあ。

「大丈夫、怒ってません。情けないとも思ってないから……ね?」

「……うん」

「さっき話してたのは、私たちの防波堤になってくれてること、ありがとうって言いたくて」

「そうだろうと、頭ではわかっていた。なのに暴走した……。冴木のことは頼みに思っているのにな」

「お互い様ですよ。私だって真夜さんのことを最初……」

 彼に笑みが戻ってきた。ああ、やっぱり抱きしめたい。手を伸ばした時――電気が消えた。

「停電だっ」

 廊下で誰かが叫んでいる。一輝さんは扉を開け、「慌てるな。すぐに自家発電に切り替わる」と声をかけた。

「社長!?」

「走るなよ。怪我をするからな。みんなにも注意を促してくれ」

「は、はいっ」

 男性社員はポケットサイズの懐中電灯をつけ、慎重に廊下を進んでいった。今日は都心でも積雪の予報があり、電線に積もると停電の恐れがあると言われていた。一輝さんと私も懐中電灯を取り出し、対処を始めた。打ち合わせ通り、真夜さんからの一斉メールが届いている。

『交通手段がなく帰宅困難な場合は、体力があるうちに系列ホテルやレストランへ。社員証を見せれば対応してもらえます。残業申請済みの人も無理は禁物。暖房の不具合はすぐに連絡を』

 今日はできるだけ早く退社するよう呼びかけていたものの、残っている人もけっこういる。一輝さんは各部署の責任者と直接連絡を取り、仕事の進捗と帰宅状況を把握していく。私はそれを聞き取って関連部署に伝達する。数分後、自家発電が作動して明かりがついた。

「ああ。ロビーまでなら構わない。人手はそっちに割いていい。……それは戸倉がやる。多少自己流だろうが大目に見てやれ。……灯里」

 彼は通話口を押さえて私を呼んだ。

「はい。ロビー、私が行きましょうか?」

「いや。木下きのしたのチームを出すから、あいつらの代わりを頼む。できるな?」

「はい!」 

 面談室を出て、一輝さんと反対方向へ。暖房がいったん落ちたせいか、廊下には冷気が漂っている。

「灯里」

 彼は電話をしながら背広の上着を脱ぎ、手渡してきた。それじゃあなたが冷えちゃうじゃない! 首を横に振ったけど、彼は揺るがない。もう一度通話口を塞いで耳元で囁くことには、

「俺は体温が高い。知ってるだろ」

「……もうっ」

 受け取って羽織り、笑顔でお礼を伝えつつ、赤面する前に離れた。こんな時でも一輝さんは一輝さんだ。ううん、こんな時だからこそ、だよね。

 階段で上へ行く途中、下りてくる木下さんとすれ違った。

「戸倉さん、悪い! 頼むっ」

「了解!」

 あとに続くチームの皆さんとも声をかけ合った。彼らは、大雪で困っている通行人の人たちをロビーへ招き入れ、ひと息ついてもらうための要員。場合によっては数時間でも、いてもらって構わないことになっている。「地域の方が困っていれば、可能な限りの協力を」――創業の頃からの精神が令和にも受け継がれ、役員も社員も当然のこととして行動する。

 木下さんの部署へ急ぎながら、気付いた。一輝さんが下にいたのは、予報よりだいぶ早く雪が降り始めたためだ。様々なことを手配している途中で私を見かけ、一時的に我を忘れた。

 頭の隅でうごめくものがある。あれほど完璧な人が私のせいで、自分が情けなくなるほど乱れてしまう。彼にとって、いいことだとは思えない。

 同時に、胸の中、降り積もっていくものがある。背広の温もり。あの人の匂い。とくん、とくんと温かく刻む鼓動。私たちは一緒にいていい、いた方がいいという確信。約束の指輪がはめられた左手を握りしめ、目指す部屋へ飛び込んだ。


「終わったー……」

 頭の芯が痺れてる。木下チームが得意先に急に頼まれ、明日の朝という過酷な期限に向けてやりかけていた作業。進捗状況を細かくメモに残すタイプの人たちだから、わかりやすくて助かった。私も作業の過程を書き残し、木下さんに電話で状況を伝えて、部屋を出た。それを見ていたかのように、一輝さんからメッセージ。

『ありがとう、助かった。いったん上に戻ってくれ』

「はーい」

 メッセージを返しながら声でも返事。電気が復旧しているから、エレベーターも安心して使える。時間はそろそろ深夜。上昇する箱の中、眠気に襲われながらほかのメッセージやメールをチェックした。真夜さんや幸太たちも一段落したらしい。二人とも、友人の家が近いので今夜はそこに泊まるということだった。振替輸送のめどが立ったことなどから、ロビーはあと一時間ほどで閉鎖するという。

「みんな帰れるんだ……よかった」

 ホッとして目を閉じたら、カクンと舟を漕いでしまった。立ったまま寝るって……んー、でもいいよね、眠いんだもん……。扉、開いた気がするけど動きたくない……もう寝る……。

「無理をさせたな」

 いつも扉の前で待ち伏せしている人の声。ふふ、心配しなくても私はちゃんと戻ってきましたよ……。


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