「焼きもちですか……」
「すまない……」
びっくりした。幸太との仲を疑われたことも、一輝さんが素直に謝ったことも。
「うーん、何ていうか。まあ、とりあえず」
彼の頭を包んで、よしよしと慰めた。
「灯里……」
腕にしがみついてくるのが、小さな男の子みたい。星吾が上手に謝れない時、こんな風だったなあ。
「大丈夫、怒ってません。情けないとも思ってないから……ね?」
「……うん」
「さっき話してたのは、私たちの防波堤になってくれてること、ありがとうって言いたくて」
「そうだろうと、頭ではわかっていた。なのに暴走した……。冴木のことは頼みに思っているのにな」
「お互い様ですよ。私だって真夜さんのことを最初……」
彼に笑みが戻ってきた。ああ、やっぱり抱きしめたい。手を伸ばした時――電気が消えた。
「停電だっ」
廊下で誰かが叫んでいる。一輝さんは扉を開け、「慌てるな。すぐに自家発電に切り替わる」と声をかけた。
「社長!?」
「走るなよ。怪我をするからな。みんなにも注意を促してくれ」
「は、はいっ」
男性社員はポケットサイズの懐中電灯をつけ、慎重に廊下を進んでいった。今日は都心でも積雪の予報があり、電線に積もると停電の恐れがあると言われていた。一輝さんと私も懐中電灯を取り出し、対処を始めた。打ち合わせ通り、真夜さんからの一斉メールが届いている。
『交通手段がなく帰宅困難な場合は、体力があるうちに系列ホテルやレストランへ。社員証を見せれば対応してもらえます。残業申請済みの人も無理は禁物。暖房の不具合はすぐに連絡を』
今日はできるだけ早く退社するよう呼びかけていたものの、残っている人もけっこういる。一輝さんは各部署の責任者と直接連絡を取り、仕事の進捗と帰宅状況を把握していく。私はそれを聞き取って関連部署に伝達する。数分後、自家発電が作動して明かりがついた。
「ああ。ロビーまでなら構わない。人手はそっちに割いていい。……それは戸倉がやる。多少自己流だろうが大目に見てやれ。……灯里」
彼は通話口を押さえて私を呼んだ。
「はい。ロビー、私が行きましょうか?」
「いや。
「はい!」
面談室を出て、一輝さんと反対方向へ。暖房がいったん落ちたせいか、廊下には冷気が漂っている。
「灯里」
彼は電話をしながら背広の上着を脱ぎ、手渡してきた。それじゃあなたが冷えちゃうじゃない! 首を横に振ったけど、彼は揺るがない。もう一度通話口を塞いで耳元で囁くことには、
「俺は体温が高い。知ってるだろ」
「……もうっ」
受け取って羽織り、笑顔でお礼を伝えつつ、赤面する前に離れた。こんな時でも一輝さんは一輝さんだ。ううん、こんな時だからこそ、だよね。
階段で上へ行く途中、下りてくる木下さんとすれ違った。
「戸倉さん、悪い! 頼むっ」
「了解!」
あとに続くチームの皆さんとも声をかけ合った。彼らは、大雪で困っている通行人の人たちをロビーへ招き入れ、ひと息ついてもらうための要員。場合によっては数時間でも、いてもらって構わないことになっている。「地域の方が困っていれば、可能な限りの協力を」――創業の頃からの精神が令和にも受け継がれ、役員も社員も当然のこととして行動する。
木下さんの部署へ急ぎながら、気付いた。一輝さんが下にいたのは、予報よりだいぶ早く雪が降り始めたためだ。様々なことを手配している途中で私を見かけ、一時的に我を忘れた。
頭の隅でうごめくものがある。あれほど完璧な人が私のせいで、自分が情けなくなるほど乱れてしまう。彼にとって、いいことだとは思えない。
同時に、胸の中、降り積もっていくものがある。背広の温もり。あの人の匂い。とくん、とくんと温かく刻む鼓動。私たちは一緒にいていい、いた方がいいという確信。約束の指輪がはめられた左手を握りしめ、目指す部屋へ飛び込んだ。
「終わったー……」
頭の芯が痺れてる。木下チームが得意先に急に頼まれ、明日の朝という過酷な期限に向けてやりかけていた作業。進捗状況を細かくメモに残すタイプの人たちだから、わかりやすくて助かった。私も作業の過程を書き残し、木下さんに電話で状況を伝えて、部屋を出た。それを見ていたかのように、一輝さんからメッセージ。
『ありがとう、助かった。いったん上に戻ってくれ』
「はーい」
メッセージを返しながら声でも返事。電気が復旧しているから、エレベーターも安心して使える。時間はそろそろ深夜。上昇する箱の中、眠気に襲われながらほかのメッセージやメールをチェックした。真夜さんや幸太たちも一段落したらしい。二人とも、友人の家が近いので今夜はそこに泊まるということだった。振替輸送のめどが立ったことなどから、ロビーはあと一時間ほどで閉鎖するという。
「みんな帰れるんだ……よかった」
ホッとして目を閉じたら、カクンと舟を漕いでしまった。立ったまま寝るって……んー、でもいいよね、眠いんだもん……。扉、開いた気がするけど動きたくない……もう寝る……。
「無理をさせたな」
いつも扉の前で待ち伏せしている人の声。ふふ、心配しなくても私はちゃんと戻ってきましたよ……。