はぁ、とため息が零れる。彼はクッと喉の奥で笑った。
「何がおかしいのよ」
「聞きたいこと、まだあるだろ?」
「じゃあ聞くけど。忙しい社長さんが、何で運転手を?」
「人探しにはうってつけなんだ。ミステリーの古典にもある。教えてくれたのは誰だっけ?」
「知識の悪用……」
「有効活用と言ってくれ」
ああ言えばこう言う。昔は、もっと落ち着いた感じの人だったのに。
「木津さん、どうしちゃったの」
私はためらわず、ストレートに聞いていた。記憶の外に追いやったつもりでいた、この人の隣にいた頃の感覚。否応なしによみがえってくる。
「別にどうもしないさ。恋をしているだけだ」
誰に、と聞くわけにはいかなかった。窓の外の街が、また乾いていく。
車は、意外と早く会社のほうへと戻ってきた。会社からは見えない場所で降りたいと伝えると、
「いいのか? 彼氏が心配するだろ」
「……」
「俺にだけは言われたくない、って顔だ」
その通りです。あなたのせいですっ。あとで一輝さんにわかったら、叱られるのは覚悟の上。あの人は私の一人歩きを警戒してるから。ここからだと、数分かかる。それどころか、知り合いの男性の車で戻ってきたらしい、なんて噂になったら……。
遠くの空で雷鳴が轟いている。不意に、いやな予感がした。いつもの、お仕置きという名の甘い時間では済まされない。木津さんが現れたことで、私と一輝さんの間に、今まで起こらなかった何かが起こる。
鉛色の空に染まりそうな気分を、頭を軽く振って払い、お財布を出した。車は、滑るように路肩に停まった。
「料金はいらないぞ。特別なお客様だからな」
「そういうこと言ってないで、きちんと取るものは取らないと。社員さんたちに怒られるよ」
「ハハッ。その口調、懐かしいよ」
付き合っていた頃の話し方に戻っていたのを指摘されて、ハッとした。無意識の甘え。いけない、この人とはもう何の関係もないのに。
端数を切り上げた金額をトレーに置いて、お財布をしまった。彼は、たしなめるような小さな笑みとともに、領収書を手渡してきた。ドアが開き、地面に足を下ろす。唐突に、現実に戻ったことを感じた。
一輝さんは、私よりも後に、疲れた顔で帰ってきた。ちょうど二階まで下りてきていた私は、入ってくる車を見てドキンと心臓が跳ねた。木津さんのことがあるからじゃなくて、あの人が弱っているのを感じ取ったから。外出から戻ってきて部長に報告を済ませた幸太も、私の隣で車が戻ったのを見ていた。
「行ってこいよ。それ、俺がやっとくから」
「ありがと!」
矢も楯もたまらず、とは正にこのこと。社屋を飛び出し、一目散に駐車場へ駆けた。助手席から降りた真夜さんは、運転席を心配そうに見ている。彼女は私に気付き、「あら」と声を漏らしてホッとした顔になった。
「お帰りなさい。お疲れ様です」
息を切らして運転席側に駆け寄った私を、一輝さんは目を丸くして迎え、表情が和らいだ。生気が戻ってきた、と言っても過言ではない変化。
「助かったわ。灯里ちゃん、あとはお願いできる?」
真夜さんは基本的に、一輝さんを軽くやり込めるポジションにある人だけど、今日はそういうわけにはいかないみたい。やっぱり、イベントで……それか、その前後で何かあったんだ。
「はい」
私はきっぱりと返事をした。
「少し寝かせてやって。私は冴木君に今日のことを伝達して、あとしばらく下にいるから」
「わかりました」
真夜さんがかっこよく歩いていくのを見送りながら、ドアを開けて降り立った彼に寄り添った。立ったままで、体重を預けるように私に寄りかかるのは、珍しいことだった。