雨の告白の三日後。私たちは学食の同じ席に座り、三度目の散歩をした。あの時雨が降り始めた場所まで歩いて、私は立ち止まった。
「どっちを先に聞きたいですか?」
それだけで、伝わった。
「君の名前と……この間の返事?」
「はい」
「順番からいけば名前の方が優先権があるんだけど……この場合、返事を聞かないことには落ち着かない」
「わかりました。じゃあ……」
姿勢を正して彼を真正面から見て、深くお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
声が、少し小さくなった。頭を上げる途中で、抱きしめられた。
「ありがとう」
「はい。あの……」
抱擁っていうか、ハグっていうか。慣れていなくてもぞもぞする私に気付いて、力を緩めてくれた。
「今更だけど、俺は木津
「戸倉灯里です……今更ですけど」
抱きしめられた時、自分の手をどこへ置いたらいいのか……いきなり抱き寄せられたから微妙にバランスの悪い足元を、動かしていいものかどうか……何もわからずに、恋が始まった。
「ん……?」
思い出から現在に急速に戻ってきたのは、道が違うことに気付いたから。明らかに、会社とは違う方向へ走ってる。
「木津さん、あの」
彼がハンドルを切った。車は、ますます会社から遠ざかる。
「久しぶりなんだ。少し付き合ってくれ」
「困りますっ。私、仕事中なんだからっ」
「豊宮グループ社長、豊宮一輝の秘書、だろ? ネットで見たよ。頑張ってるな」
ミラー越しの視線にも、声音にも、悪意は感じられない。私が応えられなかったあの出来事を除けば、彼は優しくて穏やかな大人の男性だった。彼の一歩に対して、私は半歩の幅でついていく。その距離感に甘えていた。なのに……今、初めてこの人が怖い。
怖い?
何を馬鹿なことを。
木津さんは、いつだって優しかったじゃない。
返事をせずにいると、彼はちょっとだけこっちを向いた。
「灯里はそういう仕事に向いてる。だから、ニューヨーク支店の管理部門にスカウトした」
え……?
大学生の時の。就職活動の?
「ニューヨーク支店って……木津さんの会社だったの?」
嬉しかったけど、弟の帰りを日本で待ちたいからと断った話。
「灯里の卒業に間に合うように整えて、待ってたんだ」
入院中に見た夢が頭に浮かんだ。ニューヨークの摩天楼――「待ってたんだ。今も待ってる」――「振り向くと、落ちるぞ」――。
思わず、自分の体を抱きしめたくなった。両手で、庇うように。それは露骨だから、膝の上でぎゅっと拳を作る。
窓に、斜めに雨が走る。また降ってきたんだ。一輝さんと真夜さん、大丈夫かな。私のことを心配して、会社に電話を入れているかもしれない。そしたら明田部長が電車の遅れのせいでまだ戻ってないって説明してくれて……。あの人……一輝さんが、それで納得するわけがない。合間を見て、私に直接連絡してくるかもしれない。
ううん、待って。いろいろ、おかしくない?
どこから何を聞こうかと迷ううちに、車は海を臨める道へと入っていた。聞きたいことを順番に整理しようと考えを巡らせていると、「灯里」と改まった声で呼ばれた。
「八月のあれは……悪かった」
ん? 何のことだろう。車のかすかな揺れが、この先を聞いてはいけないと警告しているような……?
「薬を打たれたと聞いて、寿命が縮んだ」
サーっと血の気が引いていく。後部座席に逃げ場なんてないのに、後ずさりしたい気持ち。
――雇い主には、銘柄を変えるように進言しておこう。
――豊宮の旦那といい、あの人といい、執心が過ぎる。
山の中で攫われた時に聞いた言葉がよみがえった。
「嘘、でしょ」
声が震える。きつい煙草を好む雇い主。私に執心してるって……。
「何で? あんな人たちと、あなたが……」
考えたくない。脳が、考えることを拒否してる。
「……計算外だった。策を弄するうちに、ああいう連中に入り込まれてしまった。今は排除の方向で動いてる。二度とあんな真似はさせない」
――雇い主に殺されたくないんでね。
あの男の声が、また頭の中に響いた。雇い主というのは、勝手に言っていただけ……?
「木津さん」
「ん?」
「私を攫った人がね……言ってたの。私に何かあったら……あなたに殺される、って」
「俺がそんな野蛮人だと? まあ……薬のことを伝え聞いた時は、殴るだけでは済まないと思ったよ」
始めれば、淀みなく続く会話。働き始める思考。突然、つながった。
「ひょっとして、か……社長が今日、イベントに呼ばれたのは」
木津さんが手をまわした?
彼はバックミラーを見上げて、唇の端を上げた。否定してくれない。