木津元治。私より一年上の、大学時代の先輩。告白されて、付き合った。それまでの間に、学食で何度か会ってて。いつもさり気なく気遣ってくれた。初めて同じテーブルで食べた時、「いつもすみません。私、何だか危なっかしくて」って、私は言ったんだっけ。窓の外の緑を、並んで眺められる席に座って。右隣に腰を下ろした彼は、思わず寄りかかりたくなるような、がっしりとした存在感を醸し出していた。あの頃の私は、なぜ弟が帰ってこないのか悩んで、現実感が薄い感覚の中にいた。
タクシーに乗り込み、彼の名を呼んだきり、二の句が継げないまま時間が戻っていく――。
目に映る景色は明るくて、私以外の新入生は、みんなどんどん大学に馴染んでいく。自分だけが、桜の四月に取り残されているような気がしていた。
学食でぼんやりしていた私にシステムを教えてくれた、体格のいい先輩。背が高くて、肩幅が広い。何かスポーツをやっているんだろうなと、ひと目でわかるくらいには体が引き締まっている。隣に座ったのは初めて。スマートな物腰の中に、鋭いナイフの閃きをちらりと感じた。それは、不快なものでも、恐ろしいものでもない。きっと、それが彼の“芯” なんだ。
この日、言葉ではなく視線で了解し合って、一緒に食べることになった。張り詰めていた自分の心が、フッと彼の控えめな笑顔をまっすぐに見た。
いつもすみません、と恐縮した私の言葉から、単なる顔見知りの域を脱しようとする会話が始まった。彼は言った。
「余計なお世話じゃなかった?」
「いいえ、ちっとも。ありがとうございました」
「君がね……キラキラ光ってるのに、表情が寂しそうで。放っておけなかった」
そう言った彼のほうが、どこか寂しそうに見えた。
心地いい時間だった。二人とも次の講義まで時間が空いていて、キャンパスを散歩しながら他愛ないことを話した。気付いたら、久しぶりにたくさん笑っていた。
時間が来て、じゃあここで、と挨拶。楽しかったなあと歩き出して、大事なことに思い至った。ぴたっと立ち止まって振り向くと、彼もこっちを向いたところだった。
「名前」
二人の声が重なった。私たちは、お互いの名前も知らずに長い間、昔からの知り合いのように話し続けていたのだ。静かな微笑みで見つめ合い、風が秘密を教えるかのように首筋を撫でていった。ああ、私はここにいていいんだ、と思えた。
沈黙を破ったのは彼のほうだった。
「三日後」
穏やかな声が、そよ風に乗って耳に届いた。
「三日後?」
聞き返しながら、私は彼の意図を理解していた。頷いて、軽く頭を下げると、彼も頷いた。それで、その日は別れた。ささやかなミステリーの中に入り込んだようで、心が躍った。そんなことは、星吾の書置きを見て以来、起こっていなかった。
三日後――彼の名前がわかる。
約束の日、学食の入口でバッタリ会った。映画みたいな偶然に微笑み合った。三日前と同じ席に並んで座り、彼は何度も食べる手を止めて、私を見ていた。
食後に、また一緒に歩いて話して……途中で、雨が降ってきた。私が次に向かう建物が近かったから、そこへ急いだ。建物の端っこに飛び込むと、彼は私の髪を軽く拭いてから、じっと見下ろしてきた。口を開いて零れてきたのは、名前じゃなかった。
「付き合ってくれる?」
壁に背を預け、一瞬、息が止まった。
「それは、つまり」
「君が好きだ」
雨粒が、生まれては地上に落ちてくるように、あまりにもストレートに紡がれた言葉。かすかな疑念が頭をよぎった――今、私は人を愛せる? そんな余裕、ないんじゃない?
外の雨音が強くなってきた。彼は別のところに向かわないといけない。返事をしなくちゃ……何て?
「三日後、に」
口をついて出た言葉。彼は切なそうに目を細め、私の手にハンカチを残して出ていこうとした。それを制して、「風邪引かないでくださいね」と言って送り出した。走っていく背中はとても大きくて、雨のほうが逃げていきそうだった。先延ばしにした返事が申し訳ないけれど、今日はまだ判断できない。何しろまだ……。
「あれ? そうだ、名前」
そう。私はまだ、彼の名前も知らない。今日、お互い教えるはずだったのが、雨に遮られた。
彼も今頃、「あ。名前……」なんて、呟いているのかな? そんなことを考えるのが、ちょっと楽しかった。