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第4章第3話

 彼は、深々と頭を下げた。

「灯里も、いつでもカウンセリングを受けられるように担当をつける。わがままも何でもきく。わがままだと感じたことは一度もないが、とにかく何でも言ってくれ。甘えてくれ。灯里のストレスは俺が吹き飛ばしてみせるから……会社に力を貸してほしい」

 デスクを挟んだ席から立ち上がって、彼の左側へ行き、しゃがんだ。力のこもった手をそっと握り、「わかりました」と答える。

「私はそういうことのプロではありませんけど、皆さんのおしゃべりを聞くぐらいなら。ほら、そんな、辛そうな顔しないでください」

 見上げる私に目を合わせた彼は、泣きそう。悔しいんだ。自分たちが大切にしてきたものが、痛めつけられていることが。

 大丈夫。力の限り、お手伝いします。あなたに危害を及ぼす存在は、絶対に許しません。力を合わせて会社を守りましょう。

 想いを込めて微笑むと、小さな笑みが返ってきた。


 九月になった。皆さんと私のおしゃべりタイムは、一日二回、一時間ずつ。一人につき三十分まで。海外支店の人たちも対象。希望者が多い場合は、グループで話すこともある。期せずして、今まで直接かかわるチャンスのなかった人たちとも、じっくり話をすることになった。

 ネガティブな話が多いのだろうと、覚悟していた。ところが、真正面から例の問題をぶつけてくる人は少なかった。ほかの話、特に仕事の中身についてぎゅっと集中して話すことで、自分のリズムを取り戻したいと願う人の方が多い。私にとっても勉強になる内容ばかり。普段、下のフロアに行って話してくるのと、感覚的には変わらない。だからストレスは感じないけど、一輝さんは宣言した通り、それはそれは熱心に私を甘やかした。わがままなんて、思いつく暇もない。

 邪魔をしてくる会社のことは、常に気がかりだった。何が目的なんだろう。それがつかめないのが、不気味だった。豊宮グループは規模が大きい。ということは、嫌がらせをしようと思えば、ターゲットはいくらでも見つかる。きりがない。


 台風がやってきては去り、ひとつ消えればまたすぐに次が発生する、不安定な季節。ある日、私は電車で取引先に行った。一輝さんはどうしても出なくてはならないイベントがあり、同行予定だった私は、同じ日に入った大事な打ち合わせに出かけることになった。イベントには、私の代わり……というのは甚だ失礼だけど、真夜さんが同行した。幸太も外出。そんな状況だから、明田部長は会社に残っていた。会社の車は出払っていて、悪天候のせいでタクシーがつかまらなかったので、電車というわけ。

 一輝さんはもちろん、いい顔をしなかった。私を攫った男たちは捕まったけど、雇い主は判明していない。タクシーはこの会社を、電車はこの線を使うこと、と細かく言い置いて、真夜さんに引きずられていった。

 無事仕事を終えて、帰りの電車に乗りながら、両親のことを考えた。婚約のことは、まだ話していない。少し前にお見合いの話が来ていると電話で言われて、言葉を濁した。そうしたら、相手がいると解釈されて、お見合いは立ち消えになった。

 アパートを引き払う日が近付いてきたから、さすがにそろそろ言わないとなあ……。うぅぅ、何て説明しよう。「専任秘書だから、ずっと社長と一緒に住むの」……駄目、怪しい。「会社の寮みたいなものなの」……嘘はあんまりつきたくない。せめて、両親には。「偽装婚約してるから、住所も同じにしないといけなくて」……駄目駄目駄目っ。強制退職させられちゃう。私が親だったら、無茶だと言われようと、口を出さずにはいられない。

「相談するか……」

 一輝さんに。「ありのままを言えばいいだろ」としか、返ってこない気がするけど。真夜さんか明田部長に、知恵を借りようかな……。

 ガタン、と電車が止まった。駅と駅の間で。車内アナウンスによれば、前を走る車両が点検で時間を食っているとか。

「……え?」

 その電車が停車中の駅名を聞いて、耳を疑った。反対方向のに乗ってる!?

 あちゃー、と心の中で呟いた。表情には出さない。恥ずかしすぎる。その上、容赦のないアナウンスは、私が戻るべき方向の路線が、事故で大幅に遅延していることを知らせた。

 数分後、動き出した車内から明田部長に連絡を入れた。

『すみません、戻るのが少し遅れます』

 返信は、申し訳なくなるほど優しかった。

『了解しました。気を付けて。ダイヤが乱れているようだからね』

「はぁ……」

 ホームに滑り込んだ電車から降りて、タクシー乗り場へ向かった。かなり待つかなあ。雨は上がっているけど、空は、黒々とした雲が今にも落ちてきそう。

 電車が途中で止まったこと。事故が起きたこと。そもそも、私が反対方向に乗ってしまったことも、一輝さんとイベントに行かなかったことも、すべて偶然。なのに、次いで起こったことは――必然? 

 駅のロータリーにタクシーを見つけて、ホッとした。何の疑問も抱かずに乗り込んだ。発進し、行き先を告げ……復唱する運転手の声に首を傾げ、ミラーに映った顔に驚いた。

「木津さん!?」

 大学時代の、元カレだった。




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