私たちと入れ替わりに夏休みを取っていた幸太と会ったのは、八月下旬。上に戻るエレベーターの中で、一緒になった。
「この前はありがとう」
「もうすっかり元気だな。よかった」
「うん、おかげ様で。運転、うまいんだね」
幸太の運転は、ベテランのタクシードライバーみたいで、病院帰りの身には本当にありがたかった。
「社長の家に住むことになったって?」
「うん。荷物、少しずつ運んでるところ」
「そっかー。頑張ってるなあ」
うんうん、と深く頷く幸太は、私ではなく一輝さんを褒めているように見える。確かに彼は頑張り屋さんだ。
それから幸太は、階数表示を見ながら「なあ、灯里」とあらたまった声を出した。
「あの人が自分で運転する理由、聞いてるか?」
「ううん、聞いてない」
「俺から説明しろってことか……」
そういえば、ああいう立場の人なら専属の運転手がついていてもおかしくない。
「社長にさ、言われてるんだ。社長のことで灯里が何か知りたがってたら、教えてやってくれって。自分はどうも口下手らしいからって」
「口下手かどうかは疑問だけど……何? 聞きたい」
言いにくそうに話し出した内容は、私の肝を冷やした。
「子供の頃に、偽物の運転手が迎えにきて、攫われたって……。相手は一人だったから、カーブでスピードが落ちたところを狙って、走る車から飛び出して。向こうはそれに気を取られて運転を誤って、崖下に落下。社長は携帯を奪われて捨てられてた。来た道を必死で戻った。やっと見つけた人家で電話を借りて、家族に連絡をつけたそうだ」
「そんなことが……」
「それ以来、家族か明田部長が運転する車以外は乗りたがらなくなった。周りも警戒してた。誘拐犯はこう言ったんだそうだ……『お前が大人になると都合が悪いんだよ。そう思ってるのはうちだけじゃないんだ』って」
頭に血が上った。許せない! 勝手な都合で子供を攫うなんて。その言葉は、一輝さんを殺すつもりだった……許せない、許せない!
才能が妬ましいなら、自分の会社に不都合だと思うなら、自分が努力すればいい――とは、私は言えない。努力だけじゃどうしようもないことだってある。それでも、その犯人の行動と言葉は、許されることじゃない。少年の心に傷を負わせた。一輝さんが一人で生きようとしたのには、そういう過去も関係があるんだろう。
守りたい。
私が、あの人を守る。
何ができるか、できないかじゃない。自分が守ると、強く思うところから始まるんだ。
「灯里……ごめん。ショックだったよな」
エレベーターが開いてる。怒りに囚われているうちに、最上階に着いていた。一輝さんが待ち構えていないのは、電話でもしているのかな。
「ううん、大丈夫。教えてくれて、ありがとう」
深呼吸をして、エレベーターを降りた。幸太は小声で話を締めくくった。
「そんなわけで、免許を取ってからは基本的に自分で運転してる。まあ、運転自体、大好きな人なんだけどな」
「うん。車を愛してるよね」
「それが救いなんだと思う。今は、灯里の存在もな」
「そうなれるように、頑張る」
素直に言えた。幼馴染みは、ちょっと目を丸くして、にっこり笑った。
社長室に入ると、一輝さんは電話をしていた。英語だ。内容からいって、次兄の正一様の部下の人かな。何か、難航しているみたい……? 珍しく、眉間に皺が寄っている。私を見て、表情が和らいだけど……。
電話を終えると、彼は私の部屋を覗いた。ちょうど入ったコーヒーを注いで、椅子を勧める。
「お疲れ様です」
「ああ……少し、疲れた」
仕事のことでこんなセリフ、普通じゃない。やっぱり何かあったんだ。甘い飴も勧めて、海外部門の取引先を思い浮かべる。
「私にお手伝いできること、ありますか?」
「うってつけの仕事がある。ストレスはたまるかもしれないが……発散には付き合うから、力を貸してほしい」
「というと?」
「厄介な横やりが入ってる。正面切ってぶち壊すのでもない、好条件をちらつかせて取引先を奪おうっていうのでもない。ただちょっかいを出して、ストレスを振り撒いていく。そういうのに入り込まれると、社内の雰囲気が悪くなる。士気が下がるから、業績にも徐々に影響が出る。うちの規模からいって業績については痛くもかゆくもないが、育ててきた人材が損なわれるのはな……」
「いやなやり方ですね」
一輝さんが、豊宮グループが、最も嫌うやり方だ。人を、傷つけていく。
「どこの……誰の仕業か、わかっているんですか?」
「トップは尻尾をつかませない。この感じは……俺の勘だが、何かを待ってるんだろうな」
「待ってる……」
「ああ。最終目的が見えてくれば、対処法もあるんだが」
彼はコーヒーをふた口飲んでから、飴を包む紙をペリペリと剥いた。ミルク味に顔がほころぶ。舐め終えるまでの間に、自分のスケジュールを確認した。彼のお願い事は予想がついたので、あとは時間の確保の問題。うん、この時間帯は空けられる。向こうの人たちには、時差を考えてこの辺……よし、と。
一輝さんは、飴を口の中で転がしながら私の作業を見ていた。感謝の色が目に浮かんでる。眉間の皺が消えてきた。
最後のかけらを飲み込んだ彼は、姿勢を正して告げた。
「この件でストレスを抱えた社員の、話し相手になってやってほしい。頼む」