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第16話 岐路

 胸が強烈に締め付けられる。

「でも……」

 会ったからと言って、なにができるのか。どうすべきなのか、分からない。

 悶々とした気持ちを胸に抱いたまま、南月は仕事の合間に模型を長く眺めるようになっていた。自分が知らない間に変化していく様が少し切なかった。

「凄いスピードで開発が進むわよね」

 不意に永江の声がした。

 驚いて振り返ると、コーヒーカップを持った永江が立っていた。

「保育園、惣菜屋、駐車場は完成したし、グループホームも建設中。道路拡張工事も半年以内にまとまりそうだし、ほら、新たに公園が追加されてる」

「……桜並木、ひまわり畑、コスモスが咲く公園……」

「開発で出た残土を盛って丘にして、その周辺を公園にする計画みたいね。まぁ、よく、次から次へと思いつくわよね。しかも、すぐに手配して作っちゃうんだもの。この公園もあっという間よ」

 完成予想図の資料があるわよ、と永江が言った。

「公園は老若男女が集まる場所。憩いの場であり、笑顔が溢れる場。そういう場所を作りたいみたい」

「……笑顔が溢れる場」

「街全体をそうするのが社長の夢……、大切な親友との約束なんですって」

「え?」

 永江は一度、言葉を切ると黒饅頭を口に入れ、笑顔で頷いた。

「私はね、今の会長……社長のお祖父様の秘書をやってた時期があるの。その頃、社長のことは『響牙お坊ちゃま』って呼んでたのよ。小さい頃から見てきたのよねぇ」

「お、お坊ちゃま!」

「天黒は『長男が継ぐ』って決まっているお家柄だから、お兄様が居る響牙お坊ちゃまは可哀相な扱いでね。色々な意味で二の次……。でも、幼い頃から色んな意味で響牙お坊ちゃまの方が優秀で、お兄様の嫉妬が凄くてねぇ」

 永江の表情に悲しみが混ざる。

「響牙お坊ちゃまが中学校に入ってすぐだったかしら。お母様のお誕生日プレゼントを巡って大騒動になったことがあってね」

「プレゼント?」

「お兄様はダイヤモンドがちりばめられたブローチを贈ったの」

「……しゃ、社長は……?」

「響牙お坊ちゃまは黒い革の財布だったのよ。随分と違うでしょ?」

「……で、でも、社長のことだから、ただの財布じゃぁ……」

「アタリ! そうなの。財布はランドセルをアップサイクルしたものだったのよ」

「アップリサイクル……」

「革の傷みが少なくて、長財布やカードケース、キーケースを作ることができたそうよ」

「素敵ですね」

「しかもね。小学校卒業前から、雑誌や本を参考にして自作したり、ハンドメイド教室に通ったりしてたの。プレゼントは、会長がバッグや靴を依頼している工房にお願いして、自分で制作したものだったのよ」

「……買ってもらったものを大切に使い、想いを込めて共有するって……」

「お母様がとても喜ばれたのを覚えているわ。でも……」

 永江は遠くを見ながら溜め息を吐いた。

「私も『格の違いを感じた』って思ったんだけど、周りが騒ぎ過ぎちゃって。お兄様と響牙お坊ちゃま、どちらを支持するかで、揉め事がね」

「そ、そんな……」

「お兄様のライバル心がエスカレートするし、派閥対立が激化するし、一時は会社が分裂するんじゃないかってところまでいってしまって……。響牙お坊ちゃまが随分と悲しまれてね」

「そんな……社長が悪い訳じゃないのに……」

「優しい人だから。アルファというものが問題を複雑にする。本当に相手のためになることはなにか、って悩むようになってねぇ」

「相手のためになること……」

「アルファって、なんでもできちゃうし、できすぎちゃったり、周囲の期待が大きすぎたりするの。誰にとってもベストなことって難しいじゃない? 結局、なにかにつけて対立が起こり、溝が深まるようになっちゃって、会長が『二人を離せ』と言い出してね。お坊ちゃまは渡米することになったの。高校の時に突然……。小学生の頃からの親友にも別れを告げられず、たった一人で空港のゲートをくぐって行った背中は本当に可哀相でね」

「……」

「辛いこともたくさんあったでしょうに、驚くようなスピードで進級してドクター取っただけじゃなくて、大学に通いながらニューヨーク支社で経験を積むって、やっぱり優秀よね。で、帰国したのが今年の一月。本社の専務に、という話があったんだけど、また騒動が起こることを懸念したのね。本社を出てココを創設したの」

「それから四か月経って僕が……」

「そう! そうなの!」

 急に永江が声を張った。

「そうね、そうよ! 丁度、その頃よ! お坊ちゃまはずっと『やりたいことがある』って言っていたんだけど、目立たないよう、水面下で静かに……、って感じだったのが、あなたに会った頃からよね。急に目に見えて動き始めたのよ。周囲の目を気にせずガンガン突き進むって感じになったのよね」

 思い出しながら喋っているのか、永江は時々言葉を止めて、うんうん、と頷いている。

「でも、ね。心や想いを大切にする人だから、悩むことも多いみたいでね。どこなのか知らないけど『困った時に考えを整理するために行くところ』があるみたいで、ここしばらく、その頻度が高そうなの。今の悩みは深そうね」

 困ったお坊ちゃま、と永江は首を緩く左右に振った。

「親友との約束も大事だけど、心労がたたって倒れたりでもしたら大変! 気持ちを楽にすることも必要だと思うんだけど。う~ん。でも、解決策が見えたら……いっきに忙しくなりそうね。のんびりまったりがいいんだけどなぁ……」

 永江は最後、ペロッと舌を出した。しんみりとしてしまったことを誤魔化すように言葉を軽くすると、空になったコーヒーカップを持って休憩室に消えた。戻って来た時にはハーゲンダッツを二つ手にしていた。

「あなたは大丈夫? 疲れてない?」

「え、あ、い、いえ。だ、大丈夫です……」

「ここ十日くらい……なんだか様子が違うなって思ってるんだけど?」

 南月はゴクッと喉を鳴らした。

 渡されたハーゲンダッツを見ながら永江の顔色を窺う。永江はフタを開けずに手に持ったまま言葉を続けた。

「これも社長の差し入れ。冷凍庫にいっぱい入ってるわ。食べてね。家じゃ、食べにくいでしょ? 双子ちゃんには、まだ早いものね」

「は、はい……」

「って、双子ちゃん、何歳だっけ?」

「二歳です」

「そっかぁ……。そろそろ、よね」

「な、なにがですか?」

「子どもが二歳になってくると、体は元の状態に戻るわよね」

「え?」

 冷や汗が出た。永江を正視できなくなる。

「私みたいな女とあなたを一緒にしちゃいけないのかもしれないけど……。ほら、子どもが二歳くらいの時期って、心と体と頭がバラバラになる時期でしょ?」

「ば、バラバラ……ですか?」

「そう。バラバラ。私も経験あるのよね。息子を産んだ後、凄く悩んだの。母乳育児だ、無農薬野菜で手作り離乳食だ、早期教育のリトミックだ、英語だ、ベビーヨガだって。子どもに良いってことを必死に取り入れて育てて、立派な母になろうとしたんだけど……ね」

「……」

「生活は全て子どもが中心。仕事もフルタイムで毎日必死。できることを精一杯やっていたつもりだったんだけどね。ちょうど息子が二歳になる頃だったかな? 夫に言われたのよ。『そろそろ良いよな』って」

「そろそろ……?」

「そう。産後、二年も経てば良いだろって。子どもばかりじゃなくて『俺の相手もしろ』って言われたの」

「あ、相手……」

「夫も家族だし、夫婦の関係ってやっぱり『大人の関係』も込みでしょ? ずっと子どもばかり大事にしていると『俺は?』って思っちゃったみたいなの。まぁ、確かに体は産前の状態に戻ってたし。『俺も大事に扱え。二年以上待ってやったんだ』って言われたのよねぇ」

「……」

 古い思い出を話すように永江は視線を遠くに向けていた。

「頭では分かるのよ。好きで結婚したんだし、大事な家族だし。体は……そりゃ、まぁ、女だし? でも、心は? 自分の本音は? って言ったら……ね。二年待ってくれたって言っても、子どもは二歳。まだまだ目が離せないし、夜は泣くし、風邪なんか引いたらサイアク。仕事と育児でクタクタな上に睡眠不足。そんな状態で、夫の相手も? 頭と体と心、全部が違う方を向いていて、どれを優先すればいいのか分からなかったのよね」

「全部、違う方向……」

「私は上手く調整ができなくて、夫と離婚したんだけど。未だに分からないのよ。あの時、どうするのが正解だったのか」

 そこで言葉を切った永江は寂しそうな笑みを浮かべていた。

「あなたは大丈夫? 頭と体と心、バラバラになってない?」

「……」

「産後の体が戻る頃って、ひとつの分岐点だと思うのよ。立ち止まる時間が必要だったら、しっかり立ち止まって存分に迷うのも大事だと思うの。あなたは頑張り過ぎて倒れる派だから、特に注意が必要よ」

「は……はい……」

 実際に倒れたことがある者としては耳が痛い。模型に視線を戻し、しばらく見詰めてから永江がデスクの方へ歩き始めた。

「さて、ハーゲンダッツ、溶けたかしら。十五分くらい待つのが良いらしいのよね」

「え? 永江さんも待って食べる派ですか?」

 思わず身を乗り出して尋ねた。振り返った永江が笑った。

「あ! ここにも待つ派が居たわね! 響牙お坊ちゃまが……いえ、社長がね、十五分くらい置いてから食べる派なの。すっかり影響されちゃってね」

「そうなんですね」

 護さんと一緒だ――。

 南月はなんだか嬉しくなって、思わず笑みを浮かべてしまった。

「あ、笑った。やっと笑顔が見られたわ」

「え?」

「ほら、その笑顔を大切にね。社長は『みんなが笑顔で助け合える街』を作ろうとしてるの。作る側の人間が笑顔を忘れちゃ駄目よ」

「あ、は、はい!」

 南月は席に戻る途中で、模型を振り返った。

 新たに追加されたひまわり畑の黄色がやけに鮮やかに輝いて見えた。

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