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第12話

 時同時刻――。

 ちょうど泡沫と巴が茶屋で話している頃。

 日が完全に沈みきった頃。小雨は、店に戻ってきていた。

「今日は、色々あって、疲れたな」

 小雨は、禿かむろの共同部屋に戻るなり、布団の上に倒れ込んだ。

 禿かむろの部屋は一階にあり、店で人員が必要な時にすぐ駆けつける事が出来るようになっている。同時に、逃亡防止のため、店の中央に位置し、出入り口から遠い。

 狭い部屋に、布団が幾つか押し込むようにあるだけの部屋。物置部屋と言われた方が納得がいく。禿かむろの部屋は基本的に共同だが、新入りの禿かむろを一カ所に集めると、逃亡の危険があるため、新入りは先輩の禿かむろの部屋に入れ、先輩の禿かむろは新入りの面倒を見ることになっている。

 売られたばかりの禿かむろは言葉を覚えたばかりの童女が多く――、大体初日は皆、朝まで泣き続けて眠れないことも多い。

 店によっては仕事をした者にしか飲食を与えない所もあるらしく、その分、入ったばかりの禿かむろにもちゃんと飯を与える分、この店はマシなのかも知れない。本音は、折角買った娘をむざむざ死なすわけにはいかないだけだが。

 ――私は、朝霧ちゃんや千代ちゃんに、助けてもらってばかりだった。

 自分より三つほど歳が上な二人は、小雨にとっては姉のような存在であり、禿かむろの仕事を覚えるまで何度も教えてくれ――遊女や女将さんにいびられて泣いていた時は傍でずっと慰めてくれた。

「……っ」

 二人分空きが出来たため、多少広くなった部屋を見て、小雨はまた泣き出しそうになるが、それをぐっと堪えた。

 ――もういい歳なんだ。いつまでもメソメソしていたら、またバカにされる。

 禿かむろの仕事は多い。遊女の身の回りの世話は勿論、他の雑用などもあり――休む暇もない。

 今は、専属の姉さんがいないため、以前よりは忙しくはないが。


 ――やっぱり変な人……だな。


 泡沫という行商人。

 客でもないのに、禿かむろの自分を気にかけ、励ますような事を言った。あんみつまで奢ってくれた。

 専属の姉さん目当ての客が、禿かむろに優しくして取り入ろうとする事はあるが、彼の場合それはない。そもそも彼は客以前に、遊郭に一切興味がないように見える。

 それ以前に、数ヶ月前に専属の姉さんが死んでしまった小雨に取り入った所で落とせる遊女などはいない。


 ――『小雨、私、好いた人が出来たのよ』


 そう言って、みんな死んでしまった。

 同じ禿かむろの朝霧や千代も、直前まであんなに幸せそうだったのに、自ら命を絶った。

 そして、小雨が専属の姉・せせらぎもまた――。

 その時の事は、今でも鮮明に思い出せる。

 彼女は、近く身請けが決まっていた。早い話、嫁として買われたのだ。しかし、その直前に、彼女は別の客だった男と共に川に身を投げた。


 心中――。


 この街では珍しい事ではない。叶わぬ恋をした時、愛し合っていても引き裂かれる運命だと悟った時――、心中という形で、二人は現世からあの世へと駆け落ちする。

 そういった男女は何組も見てきた。或いは、叶わぬ恋をして一人命を絶つ者も――。

 今、巷を騒がせている身投げ事件も、花街で生きる者からすれば、そこまで騒ぐものではない。ここは、そういう世界だ。

 恋をしてはいけない。客に本気になってはいけない。

 恋をした時――命を失うから。

 そう何度も聞かされ、それを破って死んでいった遊女達を何人も見てきた。しかし――


 ――命をかける程の恋だったのかな。


 まだ恋を知らない自分には分からないが。

 ただ――


 ――姉さんがいないのが、寂しい。


 小雨は自他認める消極的な性格であり、およそ花街で生き抜ける性質ではない。それでも、この歳まで生き残れたのは、潺が護ってくれたお蔭である。

 実際、小雨が女将さんや他の姉さんにいびられた時は潺が飛んできて、そっと抱き締めてくれた。殴られそうになった時は身を挺して護ってくれたこともあった。

「せせ姉さん……っ」

 こうやって泣き出しそうになった時も、潺が――


 ――『泣かないで、小雨。あまり泣くと、小雨じゃなくて、大雨になってしまうわよ』


「……!」

 ふいに、潺の声が聞こえた気がした。そっと頭を撫でられたような気も――。

 ――なんて、そんなわけないよね。だって、せせ姉さんはもう……。


 ――『小雨、私、好いた人が出来たのよ』


 そう言った潺は、とても幸せそうな顔をしていた。

 今まで見たことのない顔で、少しだけ見知らぬ男に嫉妬すらした。

 ――だけど、今なら少しだけ姉さんの気持ちが分かる。

 そう思った小雨の瞼の裏に浮かんだのは、自分に愛を囁いていたくれた男――厚切鴨ノ助。

 いつも仕事で失敗して裏庭で泣いている時や、他の遊女にいじめられて泣いている時――彼はふらりと現れて、慰めてくれた。

 何も言わずに抱き締め、涙を拭ってくれた。他の客と違って、禿かむろの自分を無下に扱ったりせず、本当に壊れ物のように丁寧に触れてくれた。

 ――そうやって厚切様が私を慰めていると、いつも姉さんが慌てて駆け寄ってきたな。懐かしい……あの頃に、戻れたら、いいのに。

 ――厚切様に愛されて、姉さんが傍にいて、千代ちゃんや朝霧ちゃんもいて……。

 ほんの些細な事だが、小雨にとっては最高の幸福であり――その日々さえあればいいとすら思った。

 ああ、あの頃に戻れたら――。


 ――『私は、お前が好きだ』


 そう彼は言った。

 その気持ちは嬉しかった。しかし、彼は名家であり、自分は禿かむろ

 そのせいで、すぐに彼の気持ちに応えることが出来なかった。

 それに、まだ命を奪う恋をするのが怖い。

 ――そういえば……。


 ――『小雨も、これ読んでみる? 色を知る勉強にもなるわよ』


 姉さんが自害する直前に、当時彼女が愛読していた絵巻。

 きっと何度も読んだのだろう。紙はボロボロであり、涙で濡れた跡もある。

 ――たしか、恋の物語だって言っていたけど……私は字が読めないから。

 ――ずっと開かずにいたけど、絵巻なら字が読めなくても、少しは分かるかな?

 ――そうしたら、せせ姉さんの気持ちも、少し分かるかも知れない。

 小雨は重い身体を動かし、絵巻に手を伸ばす。

 ――そういえば、姉さんが身投げする前日も、これを取り憑かれたように読んでいたな。

 そんなに、素敵なお話だったのかな。

 触れただけで上品な素材だと分かった。紅く染め上げられた紐で中心部が封じられており――

「……っ」

 ――あれ?

 小雨が紐に触れた途端、まだ解いてもいないのに、自然に紐が落ちた。

 ――元々、緩かったのかな? 何だか、すごく古ぼけているし。

 小雨が布団の上で正座し、絵巻を開こうとした時――外から入り込んだ月光に反射し、絵巻が不思議な光を放った――ような気がした。

「あれ? おかしいな……読める?」

 字が読めない筈なのに――。

 小雨の瞳に、文字が直接映り込む。

 絵巻に書かれた男女の絵と、その付近に書かれた文字――。

 それが吸い込まれるように、小雨の目には映った。

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