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第21話

「これ、は……」


 小雨が異変に気が付いたのは、部屋に入ってすぐだった。

 最初はよくある料亭の一室であり、料理が二人分と酒瓶があるだけだった。しかし、料理のすぐ隣には布団が一式用意されており、その近くには所謂大人の読み物と思われる書物や絵、お香などがあり――極めつけは、人を縛るのに手頃の紐。

「……っ」

 本能的に逃げないと危険だと感じた小雨が後ろに下がろうとすると、いつの間にか背後に回り込んでいた鴨ノ助に後ろから抱き締められた。

「何処へ行くんだい?」

 そう彼に首元に吸い付かされるが、先程の優しさはなく、強引さに恐怖を覚えた。

「厚切様、やめて……」

「何を今更躊躇している? お前だって、そのつもりでついて来たんだろう?」

「……っ」

 この人は、一体誰?

 そう思わせる程に、今の彼は小雨の知る厚切鴨ノ助ではなかった。強引で欲深く――たまに店で見る、遊女を物のように乱暴に扱う悪い大人と同じ顔をしていた。


「おい、御曹司」


 その時、襖が開かれて、数名の男達が顔を覗かせた。

 人が来た事に、小雨は一瞬の安堵を覚えるが――すぐにそれが早とちりだった事に気が付く。

「早くしろよ」

「分かっている」

 親しげな様子で、鴨ノ助は男にそう返した。

「つうかよー、今度はちゃんと生娘なんだろうな? この間の禿かむろなんざ、生娘って話だったのに、ちげぇじゃねえか」

「仕方ないだろ。水揚前に事を済まそうにも、一歩遅かったんだから」

 片腕で小雨の動きを封じながら、鴨ノ助は楽しそうに話した。

「だが、その前のは、ちゃんと生娘だっただろ?」

「まあ、そうだが、キャンキャン泣き叫んで煩くて、適わねえ……ああいうのは勘弁だ」

「ああ、その心配はねえよ。小雨は、その点、大人しいからな。まあ、それだけが取り柄なんだが」

 笑いながら言う鴨ノ助に、小雨は混乱したまま見上げる。

 その視線に気が付いたのか、鴨ノ助は今まで見た事のない邪悪な笑みを浮かべて、耳元で囁いた。

「ようこそ、大人の世界へ……」

「……っ」

 咄嗟に小雨が身を引こうとするが、男と女以前に、大人と子どもの力の差で、抵抗らしい抵抗も出来ない。

「ほらよっと」

「きゃっ」

 鴨ノ助が乱暴に小雨の身体を布団の上に放り投げる。

 小雨が起き上がろうとした時、既に彼の身体が覆い被さり――その背後で、男達が下卑た笑みを浮かべたままこちらを見ていた。まるで今から始まる事が見世物のように――。

「おら、暴れんなって」

「やめて、ください……どうして、こんなこと……」

「どうして? おいおい、こうしてくれって頼んだのは、お前の方だろ? なに被害者面してんだよ」

「だけど、こんな……見世物みたいに」

「見世物みたい? くっ、ははははは」

 小雨を押し倒した体勢のまま、鴨ノ助が笑い声を上げた。

 その後ろで、男達も似たような笑い声を上げ、口々に言った。

「みたいじゃなくて、そうなんだよ」

「そうそう。俺達、鴨ノ助ほど金持ってねえから、花街に毎晩通えねえわけ。そこで、考えたんだよ。安く、遊ぶにはどうしたらいいかって」

「そうしたら、鴨ノ助が教えてくれたんだよ」

「遊女は高いけど、店入り前の禿かむろなら、ただで出来るんじゃねえかって」

「え……」

 男達の言葉に衝撃を受けた小雨は、おそるおそる真上の男を見上げると――

「ぷっ……何だよ、その顔。もしかして、本気で俺がお前に気があるとでも思っていたのか? あり得ねえよ、花街の女に本気になるわけねえだろ。雲雀には勘づかれていたぽくて焦ったけど……お前がバカで助かったぜ」

「嘘、です。だって……」

「優しくしてくれた? ほんと、女は単純でいいよな。ちょーと優しい言葉をかけたら、ころりと惚れやがる。そもそも、禿かむろの、ましてはお前らみたいな貧相な小娘、本気にするわけねえだろ」

「……っ」

 鴨ノ助は、ショックで動けなくなっている小雨の帯に手をかけた。

 その時、鴨ノ助の懐に、見覚えのある物が見え、小雨は目を見開いた。

「そ、それ……」

「あ? ああ、これか」

 と、鴨ノ助は、懐から、朝霧や千代が身につけていた髪飾り、そして――

「姉さんの……」

 白地の布。波を模した刺繍は、かつて小雨が潺のために送った手ぬぐいである。そして、そこには赤黒い染みが出来ていた。見覚えがなくても、はっきりと分かった。

「返り血!?」

「ああ、よく分かったな。せせらぎの手ぬぐいと、禿かむろの髪留め……まあ、戦利品みたいな?」

「……っ」

 絶句する小雨に追い打ちをかけるように、鴨ノ助は言った。

「なあ、何で俺がお前に目をつけたか分かるか? お前が、せせらぎ禿かむろだったからだよ」

「姉さんの……?」

「いい女だったからな。妾に買い取る予定だったんだけどよ。その前に死んじまったからな。仕方ねえから、とりあえず禿かむろで我慢しとくかってな」

 小雨は、そこで一体ここで何が起きていたのかを悟った。

 ――ああ、そうか。朝霧ちゃんや千代ちゃんは……


 ――『私、好いた人が出来たの。水揚は、彼が担当してくれるって言ったの』

 ――『これから先、何があっても、この思い出だけで生きていけるわ』


 ――この男に恋心を踏みにじられ、ひどい形で裏切られた。それから……


 ――『小雨、私は一生分の恋をしたわ』


 ――姉さんの事も……


「おい、鴨ノ助。そいつ、何か勘づいたぽいけど、いいのか?」

「あー、大丈夫だろ。また身投げってことにしておけば。まあ、抱いちまえば、大体の女は自分で飛び込んでくれるから、始末が楽でいいけどな」

「鴨ノ助。早く済ませろよ」

「あー、分かってるって。すぐに出来るように、俺ので解しておくからよ」

 下卑た男達の、ゲスな笑い声が、遠い世界のもののように聞こえた。

「……」

 もう何も考えたくない。

 徐々に衣類が解かれる中、乱暴に帯びや帯留めが周囲に放り投げられた。その時、懐に入れていた絵巻も、一緒に放り投げられた。

 ――絵巻……

 床に落ちた絵巻が転がり、中身が見えた。

 月の下に佇む女――。

 どこか哀愁漂う女を見て、最初は愛した男と心中でもするのかと思っていた。だが、今となれば、どうして女が一人で川の畔に佇んでいるのか、どうしてそんなに哀しそうな背中をしているのかも、はっきりと分かった。


 ――この人も、一緒だ。

 ――この人も、愛した男に裏切られたんだ。


 恋をすると死ぬ――ずっと花街で言われてきた言葉の意味が小雨には今やっとわかった気がした。

 恋に悩み、振り回され、惑い――そして裏切られる。高揚感から一気に絶望に叩きつけられた、この痛みが、人を殺す。

 ――こんな事なら、ずっと一人で泣いていたかったな。

 ――誰とも会わず、何も知らないままで……一人で泣いてる方が、よっぽど……

「恋が、憎い……」

 小雨がそう呟いた時、ふいに脳裏に歌が響いた。


『五月雨の 空だにすめる月影に――』


 まるで脳内に直接叩き付けられたような感覚に襲われ、ひどい頭痛を感じた。

「……っ」


『涙の雨は はるるまもなし――』


 ――少しだけ、分かる気がする。

 ――この歌は、私と似ている。


 花街に売られた時から幸福な未来なんて望めるわけがないのに。

 勝手に希望を抱いて――勝手に絶望した。

 ――どうして、この世界は、酷いことばかり起きるの?

 ――恋をしたら死ぬのなら……いっそのこと……


「……全部、消えてなくなればいい」

「あ?」

 小雨が呟いた時――どこからか風が入り込み、部屋の中を渦が襲った。

「なっ!?」

 纏わり付くような風に襲われ、鴨ノ助が上半身を起こした時。小雨の傍に、絵巻が転がってきた。

「五月雨の……」

 小雨は絵巻に手を伸ばしながら、歌を口にする。

 ――そうだ、この雨はきっと止まない。永遠に降り続ける。


「空だにすめる月影に……」

 ――澄んだ月が幾ら照らそうと、私にその光は届かない。


「涙の雨は はるるまもなし――」

 ――私の心が晴れることもないように、もうこの雨は止まないんだ。


『サミダレノ――』


 風に攫われる中、絵巻が小雨の目の前で浮遊した。

 絵巻の中で川の畔で佇んでいた女の絵が動いた。ゆったりと、まるで絵が生まれる過程でも見ているように――ゆっくりと動き出した。

 川の畔に、男達の姿が現れた。鴨ノ助の姿に似ている。

 男達が談笑している様を、女が恨めしそうに見つめている。やがて女の姿は月すら飲み込む程に大きな物へと変貌し――鬼と化した。

 そして、そのまま男達に向かって襲いかかり――


「う、ぐっ……」

 絵巻から文字が浮かび上がり、小雨の口と鼻の中に入り込んだ。

「あああああああっ」

 小雨が悲鳴を上げると、絵巻は淡い輝きを放ち――


『キエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』


 一体の鬼女が、月光を浴びて佇んでいた。

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