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   第二十話 太陽からの支え

 「あの藤堂グループの社長が実は結婚してた」という噂が日本中に知れ渡った頃、もちろん、海外にも知られるようになっていた。

 紗希が仕事を陽介と共にしていると、以前にも増して、顧客からの辺りが優しくなっていることに気づくのだった。

 もちろん、それは紗希だからということもあるが、その後ろの陽介の影を見てのことだった。

 紗希は陽介の秘書ではあるものの、一人単独で動くこともあれば、別の役職の人達のサポートに回ることも当然ある。

 そうして交渉の現場についていくこともあるが、紹介があってから交渉となると「陽介さんの奥さんに見られていたら、仕方がないですね」などと言われてしまうこともある。

 早い話が手の平返しである。

 だから、難航している取引があると、紗希を貸してほしいという要望も出るのだが、陽介は滅多にそれに首を縦に振らない。

 紗希は一度、どうしてかと聞いた。

 そうすれば、会社にとってプラスになるのにと。

 すると陽介は「そんなことで得た取引なんて、結局よくない形で終わるよ。それに、そうやってズルをするのは僕は好きじゃないんだ」と言っていた。

 なるべく、自分の手で取引を進めなさいという社内へのお知らせが貼り出されたのは、そんなことを言っていた数日後だったかもしれない。

 詳しい日数は覚えていないが、そんなお知らせが今も、貼り出されたままだった。

「どうしてみんな、近道ばかり行こうとするかなぁ」

 陽介はまるでわからないといった様子で、紗希を利用しようとすることについて「禁止しようかなぁ」と呟いていた。

「本当は、こういうことは自分で気づかなくちゃいけないんだけどね。まあ、さすがにある程度の役職になると……って期待してたんだけど、それでも君を利用しようとする人はいるみたいだから」

 陽介は珍しく、寂しそうな表情を浮かべる。

「ごめんね。教育が行き届いてなくて。紗希を道具のように扱いたいわけじゃないし、誰にもそういうことをさせたくないからそういうことをされそうになったら僕の名前を出して。何なら、電話かけていいよ」

「……どうして、そこまでしてくれるんですか。社長」

 秘書として、紗希は聞いた。

「だから言ったでしょ。近道はないって。それを教えてあげるのも、上司の務め。……というのもあるし、あとはなんだか最近、僕が紗希に対して心を許してるから、だろうね。だから余計にそういう紗希を利用する人があまり好きじゃない……ってことだと思うよ」

「……? 自分のことなのに、わからないの?」

 紗希は秘書から素の自分へと変わったことに気づかなかった。

「うん。わからない。人って自分のことほど自分では見えないと思うし、それに、こんな状況で、こんな風に思うようになったのは初めてだから、きっとどんな感情で、どんな思いをしているのかわからないんだと思うんだ。でも、それは紗希も一緒じゃない?」

「え?」

「……表情に、出ているよ」

 陽介は紗希のわずかな表情の変化で、何か思っているけれどそれが何なのかわからないという気持ちを「自分もなんだよね」と理解していた。

 しかし、それが紗希にとっては無意識のことだったため、紗希は自分ではそれに気づけないのだった。

 ただでさえわかりにくい紗希の表情を、こんなにも見分けることが出来るようになった陽介。

 胸の奥で、何かあたたかなものが、芽生えようとしているようにも感じられた。

「ま、何かあったらすぐ言ってよ。僕が支えるし、僕が出来ることなら何でもするよ。それが夫婦ってものでしょう?」

「それはそれで、なんか違うと思うけれど……。でも、わかったよ」

 あなたの気持ちは、十分伝わった。

 そう紗希は思う。

 優しい陽介の気持ち、経営者としての藤堂陽介の気持ち、そのどちらをも大切にしてあげたいと、そう紗希は思うのだった。

「これからも、いろいろあるかもしれないけれど、紗希は大丈夫?」

「……契約したときから、それはもう覚悟してる。大丈夫」

「そっか。ならいいんだ!」

 陽介は窓を開け、外の空気を胸いっぱいに吸い込む。

「んー……。結構日差しが入ってていいね。空気がひんやりしてないよ」

「はあ」

「ねえ、紗希。これからもさ、契約の期間中、何かあったら僕が支えて守るから、安心してね。もし、契約が切れたあとでも、僕が関わっていいのであれば、なんとかするからさ」

「……うん。ありがとう」

「こんなくだらないことに付き合わせちゃってるんだもの。少しくらい、恩返しさせて」

 紗希の胸中は複雑なものだった。

 契約期間があるから、期限付きだからこの結婚をしてもいいと思ったはず。

 なのに今、少しだけ、そのことに寂しさのような、がっかりしたような、そんな感情があったのだ。

 紗希はそのことに、自分でも気づきながら、気づかない振りをしていた……。


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