東京・六本木の喧騒が落ち着いた深夜3時。ネオンの光が濡れた路面に映る、仕事帰りの男女で賑わう交差点の一角に、24時間営業の小さなダイナーがあった。
「いらっしゃいませ」
店内に入った
「ブラックコーヒーとハンバーガーセット」
「かしこまりました」
店員が応じる。
隣の席では女性が一人、資料を広げながらサラダを食べていた。
「すみません、塩を取ってもらえますか」
耕平は思わず声をかけた。涼子は無言で塩を渡す。彼女の手元には複雑な契約書と判例集が積まれていた。
「裁判の準備ですか?」
耕平は思わず口にした。
涼子は少し警戒した表情で顔を上げた。
「ええ。あなたは?」
「広告のプレゼン、失敗して落ち込んでるところです」
耕平は自嘲気味に笑った。
「そう」
涼子は再び資料に目を落とした。無愛想だが、どこか心を閉ざしている雰囲気があった。
「その案件、ディーサイドコーポレーションの特許侵害訴訟ですか?」
耕平の言葉に、涼子は驚いて顔を上げた。
「どうして知ってるの?」
「私が勤める会社が広告を担当しています」
耕平は苦笑いを浮かべた。
「その案件のせいで、クライアントのイメージ戦略に苦戦してるんです」
「興味深い偶然ね」
涼子は資料を閉じた。
「あなたからすると、私は敵側の人間ということになるかしら」
「敵なんて考えてませんよ」
耕平はコーヒーを一口飲んだ。
「むしろ同じ戦場の別陣営という感じでしょうか」
二人の会話は意外なことに弾んだ。涼子は普段、仕事の話を他人とすることはなかった。しかし、この深夜のダイナーという非日常空間では、言葉が自然と流れ出た。もちろん、案件の核心に触れることはなかったが、仕事の苦労や面白さを語り合うことで、二人の間に不思議な連帯感が生まれていた。
「結局、私たちは同じように締め切りに追われる労働者ですね」
耕平が言った。
「そうね」
涼子は珍しく笑顔を見せた。
「私は法廷で、あなたは会議室で戦っている」
「そろそろ失礼します」涼子は時計を見て立ち上がった。「明日、いえ、もう今日ですが、朝から法廷です」
「僕も帰ります」
耕平も席を立った。
「勝訴を祈るべきか、微妙なところですが...」
「あなたも良いプレゼンを」
涼子は微笑んだ。
店を出た二人は、それぞれタクシーを拾い、別々の方向に去っていった。名刺も連絡先も交換しなかった。ただの深夜の偶然の出会い—それで終わるはずだった。
しかし一ヶ月後、再び同じダイナーで二人は鉢合わせた。今度は耕平が企画書を広げ、涼子がスマートフォンでメールをチェックしていた。
「ディーサイド案件、決着したんですって?」
耕平が声をかけた。
「ええ、和解で終わりました」
涼子は少し疲れた表情で答えた。
「あなたは?」
「新しいキャンペーンが無事に通りました」
「おめでとう」
二人は再び会話を始めた。今度は仕事の話から、少しずつ個人的な話にも踏み込んでいく。涼子の離婚歴、耕平の単身赴任の経験、それぞれが抱える孤独と向き合いながら生きてきた道のり。
それから二人は、週に一度、このダイナーで「偶然」会うようになった。最初は気まぐれだったが、やがて木曜日の深夜3時は、二人の特別な時間になっていった。
「本当は法曹界を目指したんです」
ある日、耕平は告白した。
「でも司法試験に失敗して、広告の道に進みました」
「私は本当は小説家になりたかった」
涼子も意外な事実を明かした。
「でも現実的な道を選んだの」
「面白いですね」
耕平は言った。
「僕らは望んでいた人生とは違う道を歩んでいる」
「でも後悔はしていないわ」
涼子はコーヒーを飲みながら言った。
「この道を選んだからこそ、今ここにいる」
二人の関係は、恋愛というには異質で、友情というにはどこか特別だった。深夜だけの関係、現実とは切り離された時間の中で、二人はお互いの本当の姿を見せていた。
「来週、出張で来られないかもしれません」
耕平が告げた。
「そう」
涼子は少し残念そうに頷いた。
「私も大きな案件を抱えていて、しばらく忙しくなりそう」
二人は初めて連絡先を交換した。メールアドレスだけ。それでも、日常に一歩踏み出した瞬間だった。
出張先の大阪で、耕平は初めて涼子にメールを送った。法廷の合間に、涼子は返信した。深夜のダイナーを飛び出し、二人の関係は日常へと少しずつ拡がっていった。
「帰ってきたら、別の店に行きませんか」
耕平は思い切って提案した。
「たまには朝の光の中で会ってみたい」
涼子の返信は短かった。
「考えておくわ」
耕平が東京に戻った木曜日の深夜、涼子はダイナーに現れなかった。カウンターに一人座った耕平は、彼女の不在に胸が締め付けられる思いだった。
しかし店を出ると、外で彼女が待っていた。
「別の場所に行きましょう」
涼子は言った。
二人は歩き始めた。六本木の夜明け前の街を、まるで初めて会った日から続いていた会話を、場所を変えながら続けるように。
「結局、私たちって何なんでしょうね」
耕平は尋ねた。
涼子は立ち止まり、彼の目をまっすぐ見つめた。
「あなたは私にとって、偶然が必然に変わった人よ」
それから半年が過ぎた。深夜のダイナーは二人の特別な場所であり続けたが、昼間のデートも増えていった。休日には涼子が耕平のマンションで料理を作り、耕平は涼子の法廷を見学に行くこともあった。
あるクリスマスイブの夜、いつもの深夜ダイナーで、耕平は小さな箱を取り出した。
「私たちの関係は深夜3時に生まれた」
耕平は箱を開けながら言った。
「でも、これからは24時間、一緒に過ごしたい」
「プロポーズ?」
涼子は少し驚いた表情を浮かべた。
「定義するなら、そうなりますね」
耕平はウィンクした。
箱の中には銀の指輪があった。華美ではないが、内側には「3:00 AM」と刻まれていた。
「私、返事を考えておくわ」
涼子はかつての自分と同じ言葉を使った。
耕平の表情が曇ったとき、涼子は微笑んだ。
「冗談よ」
彼女は指輪を取り出し、自分の指にはめた。
「答えはイエス」
二人はダイナーを出て、東京タワーの方へ歩き始めた。空が明るくなり始め、新しい一日の光が二人を包み込んでいた。
「昼も夜も、あなたと過ごしたい」
涼子は彼の腕に自分の腕を絡めた。
「深夜のダイナーから始まった私たちが、朝日の中で約束するなんて」
耕平は彼女を抱きしめた。
「私にとっては完璧な物語よ」
涼子は囁いた。
東京タワーが朝日に照らされ、黄金色に輝き始めた。かつて深夜だけの関係だった二人は、今や一日中を共に歩む伴侶となった。彼らの物語は、深夜3時の偶然から始まり、永遠の約束へと変わったのだ。
「次の木曜日の深夜3時も、一緒に過ごしましょう」
耕平は言った。
「結婚しても、あの時間はいつも特別にしたい」
「約束するわ」
涼子は微笑んだ。
「私たちの始まりを、忘れないように」
朝日の中で交わした約束は、二人の新しい人生の幕開けだった。