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第22話  上村さんと沢田くんの場合

東京・六本木の喧騒が落ち着いた深夜3時。ネオンの光が濡れた路面に映る、仕事帰りの男女で賑わう交差点の一角に、24時間営業の小さなダイナーがあった。


「いらっしゃいませ」


店内に入った沢田耕平さわだこうへい(41歳)は、カウンター席に腰を下ろした。彼は大手広告代理店のクリエイティブディレクターとして知られていたが、今夜は久しぶりのプレゼン失敗で肩を落としていた。


「ブラックコーヒーとハンバーガーセット」


「かしこまりました」

店員が応じる。


隣の席では女性が一人、資料を広げながらサラダを食べていた。上村涼子うえむらりょうこ(37歳)、敏腕弁護士として企業案件を多く手がける彼女は、明日の裁判に向けて最終確認をしていた。疲労の色が濃い顔に、決して諦めない強さが宿っている。


「すみません、塩を取ってもらえますか」


耕平は思わず声をかけた。涼子は無言で塩を渡す。彼女の手元には複雑な契約書と判例集が積まれていた。


「裁判の準備ですか?」

耕平は思わず口にした。


涼子は少し警戒した表情で顔を上げた。

「ええ。あなたは?」


「広告のプレゼン、失敗して落ち込んでるところです」

耕平は自嘲気味に笑った。


「そう」

涼子は再び資料に目を落とした。無愛想だが、どこか心を閉ざしている雰囲気があった。



「その案件、ディーサイドコーポレーションの特許侵害訴訟ですか?」


耕平の言葉に、涼子は驚いて顔を上げた。


「どうして知ってるの?」


「私が勤める会社が広告を担当しています」

耕平は苦笑いを浮かべた。

「その案件のせいで、クライアントのイメージ戦略に苦戦してるんです」


「興味深い偶然ね」

涼子は資料を閉じた。

「あなたからすると、私は敵側の人間ということになるかしら」


「敵なんて考えてませんよ」

耕平はコーヒーを一口飲んだ。

「むしろ同じ戦場の別陣営という感じでしょうか」


二人の会話は意外なことに弾んだ。涼子は普段、仕事の話を他人とすることはなかった。しかし、この深夜のダイナーという非日常空間では、言葉が自然と流れ出た。もちろん、案件の核心に触れることはなかったが、仕事の苦労や面白さを語り合うことで、二人の間に不思議な連帯感が生まれていた。


「結局、私たちは同じように締め切りに追われる労働者ですね」

耕平が言った。


「そうね」

涼子は珍しく笑顔を見せた。

「私は法廷で、あなたは会議室で戦っている」




「そろそろ失礼します」涼子は時計を見て立ち上がった。「明日、いえ、もう今日ですが、朝から法廷です」


「僕も帰ります」

耕平も席を立った。

「勝訴を祈るべきか、微妙なところですが...」


「あなたも良いプレゼンを」

涼子は微笑んだ。


店を出た二人は、それぞれタクシーを拾い、別々の方向に去っていった。名刺も連絡先も交換しなかった。ただの深夜の偶然の出会い—それで終わるはずだった。


しかし一ヶ月後、再び同じダイナーで二人は鉢合わせた。今度は耕平が企画書を広げ、涼子がスマートフォンでメールをチェックしていた。


「ディーサイド案件、決着したんですって?」

耕平が声をかけた。


「ええ、和解で終わりました」

涼子は少し疲れた表情で答えた。

「あなたは?」


「新しいキャンペーンが無事に通りました」


「おめでとう」


二人は再び会話を始めた。今度は仕事の話から、少しずつ個人的な話にも踏み込んでいく。涼子の離婚歴、耕平の単身赴任の経験、それぞれが抱える孤独と向き合いながら生きてきた道のり。



それから二人は、週に一度、このダイナーで「偶然」会うようになった。最初は気まぐれだったが、やがて木曜日の深夜3時は、二人の特別な時間になっていった。


「本当は法曹界を目指したんです」

ある日、耕平は告白した。

「でも司法試験に失敗して、広告の道に進みました」


「私は本当は小説家になりたかった」

涼子も意外な事実を明かした。

「でも現実的な道を選んだの」


「面白いですね」

耕平は言った。

「僕らは望んでいた人生とは違う道を歩んでいる」


「でも後悔はしていないわ」

涼子はコーヒーを飲みながら言った。

「この道を選んだからこそ、今ここにいる」


二人の関係は、恋愛というには異質で、友情というにはどこか特別だった。深夜だけの関係、現実とは切り離された時間の中で、二人はお互いの本当の姿を見せていた。



「来週、出張で来られないかもしれません」

耕平が告げた。


「そう」

涼子は少し残念そうに頷いた。

「私も大きな案件を抱えていて、しばらく忙しくなりそう」


二人は初めて連絡先を交換した。メールアドレスだけ。それでも、日常に一歩踏み出した瞬間だった。


出張先の大阪で、耕平は初めて涼子にメールを送った。法廷の合間に、涼子は返信した。深夜のダイナーを飛び出し、二人の関係は日常へと少しずつ拡がっていった。


「帰ってきたら、別の店に行きませんか」

耕平は思い切って提案した。

「たまには朝の光の中で会ってみたい」


涼子の返信は短かった。

「考えておくわ」


耕平が東京に戻った木曜日の深夜、涼子はダイナーに現れなかった。カウンターに一人座った耕平は、彼女の不在に胸が締め付けられる思いだった。


しかし店を出ると、外で彼女が待っていた。


「別の場所に行きましょう」

涼子は言った。


二人は歩き始めた。六本木の夜明け前の街を、まるで初めて会った日から続いていた会話を、場所を変えながら続けるように。


「結局、私たちって何なんでしょうね」

耕平は尋ねた。


涼子は立ち止まり、彼の目をまっすぐ見つめた。

「あなたは私にとって、偶然が必然に変わった人よ」



それから半年が過ぎた。深夜のダイナーは二人の特別な場所であり続けたが、昼間のデートも増えていった。休日には涼子が耕平のマンションで料理を作り、耕平は涼子の法廷を見学に行くこともあった。


あるクリスマスイブの夜、いつもの深夜ダイナーで、耕平は小さな箱を取り出した。


「私たちの関係は深夜3時に生まれた」

耕平は箱を開けながら言った。

「でも、これからは24時間、一緒に過ごしたい」


「プロポーズ?」

涼子は少し驚いた表情を浮かべた。


「定義するなら、そうなりますね」

耕平はウィンクした。


箱の中には銀の指輪があった。華美ではないが、内側には「3:00 AM」と刻まれていた。


「私、返事を考えておくわ」

涼子はかつての自分と同じ言葉を使った。


耕平の表情が曇ったとき、涼子は微笑んだ。


「冗談よ」

彼女は指輪を取り出し、自分の指にはめた。

「答えはイエス」


二人はダイナーを出て、東京タワーの方へ歩き始めた。空が明るくなり始め、新しい一日の光が二人を包み込んでいた。


「昼も夜も、あなたと過ごしたい」

涼子は彼の腕に自分の腕を絡めた。


「深夜のダイナーから始まった私たちが、朝日の中で約束するなんて」

耕平は彼女を抱きしめた。


「私にとっては完璧な物語よ」

涼子は囁いた。


東京タワーが朝日に照らされ、黄金色に輝き始めた。かつて深夜だけの関係だった二人は、今や一日中を共に歩む伴侶となった。彼らの物語は、深夜3時の偶然から始まり、永遠の約束へと変わったのだ。


「次の木曜日の深夜3時も、一緒に過ごしましょう」

耕平は言った。

「結婚しても、あの時間はいつも特別にしたい」


「約束するわ」

涼子は微笑んだ。

「私たちの始まりを、忘れないように」


朝日の中で交わした約束は、二人の新しい人生の幕開けだった。


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