疲れた足を引きずりながら、青野修は東京の繁華街を歩いていた。関西から出張で来て三日目、ようやく大きな契約が決まり、取引先からの「お祝いだ」という誘いを断ることができなかった。
「青野さん、こちらです。うちの会社のお気に入りの店なんですよ」
案内されたのは、高級感のある外観のキャバクラだった。修は内心溜息をついた。普段なら丁重に断るところだが、今日は重要な契約締結後の付き合いだ。仕方なく、煌びやかな看板の下をくぐった。
「いらっしゃいませ」
華やかな声と共に出迎えてくれた女性たちの中に、修は見覚えのある横顔を見つけて息を呑んだ。
「彩...?」
声に出したつもりはなかったが、その言葉は確かに口から漏れていた。黒い艶やかなドレスに身を包んだ女性が、修の方を振り向いた。一瞬、彼女の表情が凍りついた。
堀北彩。大学時代、二年間付き合っていた元恋人だ。
彩はすぐにプロの笑顔を取り戻し、
「こちらへどうぞ」
と流暢な仕草で案内した。しかし、修には彼女の動揺が手に取るように分かった。
「知り合いですか?」と取引先の部長が訊いた。
「ええ、大学の同級生です」
修は曖昧に答えた。テーブルに案内され、シャンパンが注がれる。彩は別のテーブルを担当しているようで、修は時折り彼女の姿を目で追いながら、無理に会話に参加していた。
彩は変わっていた。大学時代の少し儚げで、絵筆を持つと別人のように生き生きとしていた美術学部の彼女とは違い、洗練された都会の女性になっていた。しかし、その仕草の隙間から、かつて知っていた彩の面影が見え隠れする。
「青野さん、指名してみたら?」
酔いが回った取引先の社員が、修の視線に気づいて声をかけてきた。
「あ、いえ...」
断りかけた時、彩と目が合った。彼女はわずかに眉を上げたが、すぐに別のお客に笑顔を向けた。
時間が経ち、取引先の人々が次第に酔いつぶれていく中、修はトイレに立った。戻ってくると、彼のテーブルに彩が座っていた。
「久しぶりね、修くん」
穏やかな声音だったが、彩の指先は少し震えていた。
「彩...まさか、ここで会うとは思わなかった」
修は言葉を選びながら答えた。テーブルの上で、彼女の手が拳を握りしめている。
「大学卒業してからどうしてた?」
彩は会話を普通に保とうとした。
「関西の出版社で編集者やってる。小説とかエッセイとか」
彩はわずかに微笑んだ。
「やっぱり文学の道に進んだのね。あなたらしい」
「彩は?絵の方は...」
修は遠慮がちに尋ねた。大学時代、彩の絵への情熱は誰よりも強かった。
彩は一瞬目を伏せ、少し硬い笑顔を浮かべた。
「夢破れたってところかしら。就職難で、いろいろあって...今はここで働いてる」
その言葉の裏に、多くの苦労が隠されていることを修は感じた。彩の顔は以前より痩せ、化粧で隠しきれない疲労が目の下に現れていた。
「でも、修くんは変わらないわね。相変わらず優しい目をしてる」
彩の声には懐かしさが混じっていた。
「そんなことない。俺も苦労したよ」
修は照れて視線を逸らした。
その時、彩のスマホが鳴った。彼女は画面を一瞥すると、表情が一瞬強張った。
「大丈夫?」
修が心配そうに尋ねると、彩は慌てて笑顔を作った。
「ええ、何でもないわ」
しかし修には、その笑顔が無理に作られたものだと分かった。
店を出る頃には、既に終電の時間は過ぎていた。取引先の人々はタクシーに乗り込み、修は一人残された。
「ホテルはどこ?」
突然背後から声がした。振り返ると、私服に着替えた彩が立っていた。
「秋葉原のプレミアホテル」
「送っていくわ。少し話したいし」
夜の東京を二人で歩く。かつて付き合っていた二人だが、今は知らない街を歩く他人同士のようだった。
「あの時、もっとちゃんと話し合えばよかったね」
修が言うと、彩は首を横に振った。
「お互い若かったのよ。あなたは関西で、私は東京で、それぞれの夢があった」
大学卒業の頃、修は関西の出版社に内定が決まり、遠距離になることを機に関係は自然消滅していた。その後、一度も連絡を取っていなかった。
ホテルの前に着くと、再び彩のスマホが鳴った。彩は画面を見て、顔色を変えた。
「彼氏?」
と修が尋ねると、彩は小さく頷いた。
「清史っていうの。一緒に住んでるけど...」
言葉を濁す彩。その時、彼女のスカーフがずれ、首元に青紫色のあざが見えた。
修は息を呑んだ。
「彩、それ...」
彩は慌ててスカーフを直し、
「行かなきゃ。今日は会えて嬉しかった」
と言って背を向けた。
修は彼女の腕を優しく掴んだ。
「何かあったら連絡して。俺、あと三日ここにいるから」
彩はじっと修の顔を見つめ、小さく頷いた。そして彼の腕から自分の手を離し、夜の闇に消えていった。
修はしばらくその場に立ち尽くしていた。再会の喜びと、彩の現状への懸念が胸の中で渦巻いていた。部屋に戻り、窓から東京の夜景を見つめながら、修は昔の記憶に浸った。
大学時代、彩は画材を抱えていつも笑顔だった。キャンバスに向かう彼女の横顔は、今でも修の記憶に鮮明に残っている。どうして彼女があんな場所で働き、暴力的な男性と一緒にいるのか。そして、自分に何ができるのか。
修はベッドに横たわったが、眠りにつけずにいた。スマホを手に取り、彩の連絡先を確認した。「もしものときは連絡して」というメッセージを送り、それから目を閉じた。
返信を期待していなかったが、すぐにスマホが震えた。
「ありがとう。おやすみ、修くん」
たった一行のメッセージだったが、修は少し安心した。明日からの出張の予定を頭の中で整理しながら、彼は徐々に眠りに落ちていった。しかし、彩の首元に見えたあざの映像が、何度も心の中に浮かんでは消えていった。
翌日、修は出版関係の会議に出席していた。集中しようと努めるが、彩の姿が頭から離れない。会議の合間に、彼は彩にメッセージを送った。
「今日も元気?」
返事はすぐには来なかった。修は自分が心配し過ぎているのかもしれないと思いながら、仕事に戻った。夕方になり、ホテルに戻ると、ようやく彩からの返信があった。
「ごめん、今日は忙しくて。今夜も仕事だから」
簡潔な返事だった。修は少し落ち込みながらも、押し付けがましくならないよう「頑張ってね」と返した。そして夕食を一人で済ませ、ホテルの部屋でノートパソコンを開き、仕事を始めた。
午前1時を過ぎた頃、突然部屋の電話が鳴った。修は眠気まなこで受話器を取った。
「フロントでございます。堀北様というお客様がお見えになっています」
修は一瞬何のことか理解できなかったが、すぐに目が覚めた。
「案内してください」
数分後、ドアをノックする音。開けると、そこには雨に濡れた彩が立っていた。彼女は震えていた。それは雨のせいだけではないことが明らかだった。
「入っていい?」
震える声に、修は黙って彩を招き入れた。
「タオルを持ってくるよ」
修がバスルームに向かおうとした時、彩が彼の袖を掴んだ。
「少し…このままでいさせて」
修は動きを止め、彩の肩を優しく抱いた。彩の体は冷え切っていた。
「温かいシャワーを浴びた方がいい。風邪をひくよ」
修はそっと言った。彩は小さく頷き、バスルームに向かった。
シャワーの音が聞こえる間、修は彩のために温かい飲み物を用意した。ホテルの部屋には緑茶しかなかったが、それでも冷えた体には良いだろう。
バスルームのドアが開き、修のバスローブを着た彩が現れた。左目の周りが腫れ、唇が切れていた。修は言葉を失った。
「見苦しいわね」
彩は自嘲気味に言った。
「座って。お茶を入れたよ」
修は彩をベッドに座らせ、茶碗を差し出した。
「何があったの?」
沈黙が続いた後、修は静かに尋ねた。
彩は茶碗を両手で包み込むように持ち、小さな声で話し始めた。
「清史が...今日、店に来たの。私が他の客と話しているのを見て、激怒して...」
彩の声が詰まった。
「店の外で待ち伏せしていて、帰り道に...」
彩は自分の顔を手で覆った。
修は彩の隣に座り、肩に腕を回した。
「最初は優しかったの。でも、仕事のストレスからか、徐々に暴力が...。最初は謝ってくれたから、変わると思って...でも、だんだんエスカレートして...」
修は黙って彩の話を聞いた。怒りが込み上げてきたが、今は彩を支えることが先決だと自分に言い聞かせた。
「もう、戻れない」
彩はぽつりと言った。
「でも、私の荷物も、仕事も...」
「明日、警察に同行する。それから、荷物を取りに行こう」
修は静かに、しかし強い声で言った。
「警察?でも...」
「DV被害は犯罪だ。彩を守るためには、正式に記録に残す必要がある」
彩は長い間黙っていたが、やがて小さく頷いた。「ありがとう...」
その夜、彩は修のベッドで眠り、修はソファで一晩を過ごした。眠れぬ夜、修は窓際に立ち、雨の東京を見下ろしていた。彩が眠りについた後も、時折、彼女のすすり泣く声が聞こえた。
修は後悔に苛まれていた。あの時、もっと彩と連絡を取り続けていれば、こんなことにはならなかったのではないか。しかし、過去を変えることはできない。今できることは、彩を守り、彼女が新しい一歩を踏み出す手助けをすることだけだった。
朝になり、修は彩を起こさないように静かに朝食を注文した。彩が目を覚ましたとき、テーブルには温かい食事が用意されていた。
「朝...」
彩はかすれた声で言った。顔の腫れは少し引いていたが、あざはより鮮明になっていた。
「おはよう。少し食べられる?」
修は優しく尋ねた。
彩は小さく頷き、ベッドから起き上がった。二人は静かに朝食を取り、その後、修は警察署への行き方を調べ始めた。
「本当に...警察に行くの?」
彩は不安そうに尋ねた。
「うん。彩を守るためには必要なステップだ。それに、荷物を取りに行くときも、警察官に同行してもらえる」
彩は深く息を吐き、決心したように立ち上がった。
「わかった。行こう」
警察署では、彩はDV被害の届け出を出し、修は付き添いとして彼女をサポートした。担当の警察官は、経験豊富な女性で、彩の話を丁寧に聞いてくれた。
「荷物を取りに行きたいのですが...」
彩が言うと、警察官は頷いた。
「立ち会いのため、同行します。家に帰る前に、パートナーが不在かどうか確認しましょう」
彩のアパートに着く前、警察は清史の所在を確認した。彼は仕事に出ており、不在だということだった。
アパートは小さいながらも清潔に保たれていた。壁には彩の描いた絵がいくつか飾られていた。修はそれらを見て、彩の才能は失われていないことを確信した。
「必要なものだけ持っていきます」
彩は警察官に告げ、急いで服や書類、化粧品などを鞄に詰め始めた。
修は彩の描いた絵に目を向けた。
「これも持っていこう」
彩は少し戸惑ったが、修が絵を丁寧に梱包するのを見て、感謝の表情を浮かべた。
アパートを後にする際、彩は一度振り返り、静かに
「さようなら」
と呟いた。それは清史だけでなく、自分の過去の一部にも告げる言葉だった。
警察署に戻り、必要な手続きを終えた後、二人はホテルに戻った。
「これからどうする?」
と修が尋ねた。
彩は疲れた表情で答えた。
「わからない...仕事も、住むところも...」
「出張はあと一日で終わる。その後、俺と関西に来ないか?」と修は提案した。
「関西?でも私の仕事は...」
「無理に今決める必要はない。ただ、選択肢があることを知っておいてほしい」
彩は黙って考え込んだ。
「とりあえず今夜は別のホテルを予約しておいたよ。君の名前では取れないと思ったから」
修は彩に別のホテルのキーカードを渡した。
「ありがとう...でも、お金は返すわ」
彩は申し訳なさそうに言った。
「そんなこと、気にしなくていい。今は安全に過ごすことが大事だ」
その日の夕方、修は彩を別のホテルまで送り、自分の部屋番号を彼女に伝え、いつでも連絡できるようにした。
「明日の夜、一緒に夕食でもどうかな」
修は提案した。彩は少し明るい表情を見せ、頷いた。
修は自分の部屋に戻り、明日の会議の準備を始めた。しかし、彩のことが頭から離れなかった。関西に誘ったのは衝動的だったかもしれないが、後悔はしていなかった。
深夜、修のスマホに彩からの着信があった。慌てて電話に出ると、恐怖に震える彩の声が聞こえた。
「清史が...私のホテルを知っていて...ドアを叩いているの...」
修は即座にタクシーを呼んだ。
「部屋から出ないで。今すぐ行くから」
彩のホテルに着くと、廊下で清史が彩の部屋のドアを叩いていた。
「彩!開けろ!誰と会ってたんだ!」
修は冷静に清史に近づいた。
「堀北さんは今、あなたに会いたくないと言っています。警察も状況を把握しています」
清史は振り返り、修を見た。酔いに赤く染まった顔に怒りが浮かんだ。
「お前、誰だ?彩の何なんだ?」
「彼女の友人です。そして、彼女を守るために必要なら、何でもします」
修の声は静かだったが、決意に満ちていた。
清史は詰め寄ってきたが、その時、通報により駆けつけたホテルのセキュリティが到着した。清史は一瞬ひるんだが、まだ引き下がる気配はなかった。
「警察にも連絡しました」
修が言うと、清史はようやく観念したように肩を落とした。
「あいつに伝えろ。荷物はもう捨てた。二度と戻ってくるなと」
清史は毒づきながらも、セキュリティに促されて立ち去った。
修は部屋のドアをノックした。
「彩、俺だよ。もう大丈夫だ」
ドアが開き、怯えた表情の彩が顔を出した。
「修くん...」
彩は泣きながら修に抱きついた。
「一緒に俺の部屋に行こう。今夜はそこで過ごそう」
修は彩を抱きしめながら言った。
その夜、彩は再び修のベッドで眠り、修はソファで過ごした。明日は最後の会議だ。その後、二人はどうするのか。修は眠れぬまま、考え続けた。
朝、彩は落ち着いた様子で目を覚ました。
「決めたわ」
彼女は静かに言った。
「関西に行く。でも...」
「でも?」
修は彩の言葉を待った。
「最初は友達として。自分を取り戻したいの。画家になる夢も、まだ諦めてない」
修は嬉しそうに微笑んだ。
「それでいい。俺の出版社には美術書の部門もある。紹介することもできる」
「それと...」
彩は少し照れながら続けた。
「あなたの小説、出版されたの知ってるわ。大学時代に書いてた小説が形になって、すごく嬉しかった」
修は驚いた。
「知ってたの?」
「もちろん。あなたのペンネーム、青山という名前で出してるでしょ。でも文体ですぐわかったわ」
修は恥ずかしそうに頭を掻いた。彼の小説は、大学時代の彩との思い出がモチーフになっていたのだ。その事実を彩が知っていたとは。
「今日、最後の会議が終わったら、一緒に関西に帰ろう」
修は彩の手を取った。
「新しい始まりだ」
彩は初めて心から笑顔を見せた。
「ありがとう、修くん。人生をやり直す勇気をくれて」
修は彩の手を優しく握り返した。
「彩が選んだ道だ。俺はただ、その選択肢を示しただけ」
二人は窓から朝の東京を見つめた。昨日までの雨は上がり、清々しい青空が広がっていた。それは、新しい一日の始まりであると同時に、彩と修の新しい人生の始まりでもあった。
関西での新生活が始まって半年。彩は修の紹介で美術館の仕事に就き、夜間は美術教室に通っていた。修は彩の住まいから近いマンションを紹介し、時々食事に誘う程度の距離を保っていた。
ある日、彩は修の出版社のイベントに招待された。修が編集した新人作家のデビュー作の出版記念会だった。
「挿絵を描いてほしい作家がいるんだ」
イベントの後、修は彩に声をかけた。
「君の絵のタッチが物語にぴったりだと思って」
彩は驚きながらも、その申し出を受けた。それが彼女の画家としての再出発になるとは、まだ知らなかった。
挿絵の仕事をきっかけに、彩の才能は次第に認められるようになった。彼女の絵は、傷ついた心を癒す不思議な力を持っていると評判になった。
一方、修と彩の関係も少しずつ変化していった。友人として始まった再会は、互いを尊重する深い絆へと育っていった。
あれから一年後、彩は初の個展を開くことになった。テーマは「再生」。
「これ、あなたに見てほしかったの」
彩は修を展示室の奥へ案内した。そこには一枚の大きな絵があった。夜の街で二人が出会う瞬間を描いたものだった。
「あの夜、あなたがいなかったら、私は変われなかった」
「いや、変わろうと決めたのは彩自身だ」と修は言った。
彩は微笑んで、修の手を取った。
「でも、きっかけをくれたのはあなた。それに…」
彩は少し間を置いて続けた。
「私たちの物語、また始めてみない?」
修は彩の手をそっと握り返した。
「今度は、最後まで一緒に書いていこう」
展示会の終わり、二人は夕焼けの中を歩いた。これから二人で歩む道は、決して平坦ではないかもしれない。しかし、過去の痛みを乗り越え、互いを尊重し合えるようになった二人には、どんな困難も乗り越えられる強さがあった。
彩は修の肩にそっと頭を預けた。
「ねえ、あなたの次の小説のヒロインは、幸せになれる?」
修は彩の髪に軽くキスをして答えた。
「なるよ。だって、これからは二人で物語を紡いでいくんだから」
東京の夜に傷ついた心が、関西の穏やかな日々の中で癒され、新たな愛を育んでいく。堀北彩と青野修の物語は、ここから本当の意味で始まったのだった。