都内のIT企業に勤めるプロジェクトマネージャー。きっちりした性格で、効率と成果を何より重んじるタイプだ。スケジュール表は1時間単位で管理され、無駄な雑談は最小限。そんな彼が最近抱える悩み──それは、職場でのストレスによる不眠と、空っぽのような日常だった。
フィットネスジムの人気インストラクター。エネルギッシュで人懐っこく、自然体な雰囲気が周囲を和ませる。彼女の「朝ヨガ」には、わざわざ平日に早起きして通うファンも多い。だが、彼女自身は心に小さな空洞を抱えていた。2年前、長く付き合っていた恋人との破局。それ以来、恋愛は“必要ないもの”に分類されていた。
──そんな二人が出会ったのは、共通の友人の結婚式二次会だった。
「初めまして、高山奏です。IT系の仕事してます」
「南雲千遥。ジムでヨガとかやってます」
形式的な挨拶のあと、沈黙が続いた。話をつなげようとした奏が口にしたのは、余計な一言だった。
「ジムの仕事って、感覚が命ですよね。僕にはちょっと縁遠い世界かもしれません」
千遥は眉をひそめた。
「感覚で動くからこそ、人の身体に寄り添えるんですよ。数字じゃ測れないことも、たくさんあるの」
言い合いになるほどではなかったが、明らかに“合わない”とお互いが感じていた。式のあと、連絡先も交換せずに別れた。
──二人は、もう二度と会うことはないと思っていた。
数週間後。
不眠の改善を目指して、奏が会社の福利厚生を使って通い始めたフィットネスジム。そこに現れたのは──あの千遥だった。
「……また会いましたね」
「まさか、うちのジムだったとはね。お互いびっくり」
微妙な空気を引きずりながらも、奏は彼女のストレッチクラスを受けてみることにした。最初は体が硬すぎて、皆についていけなかった。それでも彼は、毎週同じ時間に通い続けた。
「高山さん、最初のころより姿勢よくなりましたよ」
「効率よく動けるようになったってことですね」
「……そう言い方する? でも、ちょっとだけ嬉しいかも」
少しずつ、二人の間にあった壁がやわらいでいった。
ある日の帰り道、雨に降られて千遥と駅まで相合傘になった。
「傘持ってなかったんです。助かりました」
「俺、天気予報は3サイト見てから出るので」
「さすが“効率重視”」
笑いながら言った千遥だったが、その表情の奥にふと寂しさが混じった。
「……昔付き合ってた人がね、全部合理的に考える人で、私の気持ちを“わかんない”で済ませてばかりだったの」
「……それって、俺と似てるって思った?」
「ちょっとね。でも、あなたは違うかもしれない。たまに、すごく人間っぽい顔するから」
その言葉に、心のどこかが静かに動いた。
ジムに通い始めて3ヶ月が経った頃、千遥が数日休んだ。気になった奏は、メッセージを送るべきか迷いながらも、短くこう打った。
「無理しないでください。返信不要ですが、心配しています」
送信後、しばらくスマホを見つめ続けた。10分後、意外にもすぐ返ってきた。
「ありがとう。高山さんに“感情のメッセージ”をもらえるなんて、ちょっと感動してます」
翌週、千遥が復帰。変わらぬ笑顔でクラスを再開し、レッスン後の一言が決定打になった。
「この前のメッセージ、嬉しかったです。本気で、誰かに優しくされたのって、久しぶりだったから」
奏は黙ってうなずいたあと、言った。
「……南雲さん。俺、あなたのことが気になってます。いや、正直に言うと、好きです」
沈黙のあと、千遥が息を吸って笑った。
「私は……ずっと“恋愛=傷つくもの”って思ってた。でも、高山さんなら、一緒にいても、怖くないかもしれない」
「答えが出ない気持ちでも?」
「うん。恋のエッセンスさえ加えれば、たぶん解ける」
二人は、少し照れながらも自然と歩幅をそろえ、駅へ向かった。
それから半年。
奏の暮らしには、千遥の笑い声が加わった。時間通りではない出来事も、突然の感情の揺れも、今は愛おしく思える。
ある休日の朝、千遥がキッチンで奏に向かって言った。
「ねえ奏くん。“彼氏×彼女”に、恋のエッセンスを加えたら、答えってやっぱり“幸せ”?」
「いや、正確には──“君”だよ。俺にとっての答えは」
千遥は少し黙ったあと、カップを手にそっと微笑んだ。
「じゃあ、その式、ずっと一緒に解いてこうね。正解じゃなくて、“一緒に考える”ってのが大事だから」
二人は、目を合わせて笑った。
正解なんて、きっと一つじゃない。けれど、今の二人にとって、それが一番の「答え」だった。
同棲を始めて、1年が過ぎた。
千遥の使ったシャンプーの香り、朝に作るスムージーの音、そして夜中にベッドの中で交わす小さな会話。かつて“効率”と“正解”ばかりを追いかけていた奏にとって、そのどれもが心地よく、欠かせない日常になっていた。
だが、心のどこかで、彼は問いを抱えていた。
──このままでいいのか?
「一緒にいる」と「人生を共にする」は、似ているようでいて、違う。
彼女をずっと隣に感じていたい。でも、彼女は本当にそれを望んでいるのだろうか。
合理的に考えても、感情で考えても──出る答えは、同じだった。
秋のある日曜日。
千遥はジムのイベントで1日不在だった。奏は一人で外に出た。向かったのは、小さな宝石店。こじんまりとしたショーケースの中に、飾りすぎないシンプルなリングが並んでいた。
「彼女は派手なもの、好きじゃないんです。でも、まっすぐな想いは伝えたい」
店員にそう告げて、彼は一つのリングを選んだ。細身のプラチナに、小さなダイヤが一粒だけついたもの。控えめで、けれど芯のある光。それが、千遥のようだった。
プロポーズの日を決めるまでに、数週間かかった。
きっちり者の奏には、「タイミング」がどうしても難しかった。仕事で疲れている日も、天気の悪い日も避けた。ようやく決めたのは、ふたりが初めて雨に打たれた、あの駅前のカフェでのディナーだった。
「このお店、覚えてる?」
「もちろん。傘、忘れてびしょ濡れになったとこでしょ。あの時のあなた、髪ペタペタで笑ったわ」
食事のあと、奏はふうっと息を吐いて、少しだけ間を置いた。
「……千遥」
彼女が顔を上げた瞬間、奏は小さな箱を差し出した。
「俺ね、ずっと“正解”が欲しくて生きてきた。効率も、安定も。でも、あなたと一緒にいるうちに、気づいた。正解じゃなくて、“続けること”が答えなんだって」
ゆっくりと箱を開く。指輪の輝きに、千遥が目を見開いた。
「これからも一緒に、恋の方程式、解き続けてくれませんか?」
千遥は、ほんの一瞬だけ涙をこらえて──笑った。
「はい。……あなたとなら、毎日が楽しい宿題です」
入籍は、春。
咲き始めた桜を背景に、区役所の前でふたりは記念撮影をした。結婚式は挙げず、代わりに小さなパーティを開いた。奏の同僚たちが驚いたのは、彼がスピーチでこんなことを言ったからだ。
「僕は数字に強い人間ですが、ひとつだけ、計算できないものがありました。それが、彼女への気持ちです。恋愛は、効率も解法もない。でも、解こうとする気持ちが、すでに答えなんだと思います」
千遥は、そんな奏をじっと見つめて、心からの拍手を送った。
夜、二人で新居に戻る道すがら。
「ねえ、奏くん」
「ん?」
「結婚って、スタートなの? ゴールなの?」
「たぶん、“方程式の途中”だよ。だけど、もう一人じゃない。隣にあなたがいる。それだけで、安心して計算できる」
「……ずるいなあ、そういう答え方」
「俺も、変わったんだよ」
千遥は小さく笑い、奏の腕に自分の手を重ねた。
夜風が心地よく、春の匂いがふたりの間をふわりとすり抜けた。
その先に待つ未来が、どんな形であっても。
ふたりなら、きっとまた「エッセンス」を加えて、答えを導ける。