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第26話  佐々木さんと高橋くんの場合

三年前の春のこと。


休日の午後、高橋蒼たかはしそうはカメラを片手に近所の小さな公園を歩いていた。桜が咲き始めたばかりで、風に舞う花びらが美しい光景を作っていた。


そのとき、ベンチの前でしゃがみ込み、落ちた花びらを拾っている女性、佐々木陽菜ささきひなが目に入った。


「……あの」


「はい?」


「よかったら、そのまま少し動かずにいてもらえますか。写真を一枚だけ……」


驚いた顔でこちらを見ていた彼女は、すぐにふわっと笑った。


「そんなに変な顔してませんか?」


「……いや、とても、綺麗です」


一瞬で顔が赤くなったのは、どちらだったか覚えていない。


それが、蒼と陽菜の出会いだった。




写真を撮ったあと、彼女が「陽菜」と名乗り、二人は自然と会話を交わすようになった。お互いに読書や散歩が好きで、静かな時間を大切にするところが似ていた。


ある日、陽菜が雑貨屋で働いていることを知った蒼は、彼女の店に足しげく通うようになる。


「また来たんですか?」


「いや……近くに用があって」


「嘘ですね。何回“近くに用”あるんですか」


そんなやりとりを繰り返しながら、ふたりの距離は近づいていった。


そして、初めてのデートの日。


蒼はぎこちなく、でも真剣に言った。


「陽菜さん。よかったら……俺と、付き合ってください」


「うん。こちらこそ、よろしくお願いします」


その笑顔を見たとき、蒼は本当に世界が少しだけ変わった気がした。





しかし交際から一年が経つころ、ふたりの関係は少しずつすれ違い始める。


仕事の忙しさや、言葉の足りなさ。互いを思っているのに、伝わらないもどかしさが募り──


ある夜、陽菜がつぶやいた。


「私たち、これ以上一緒にいても、傷つけ合うだけかもしれない」


「……そうかもな」


そうして、ふたりは静かに別れた。


それから二年。


蒼は一度も陽菜のことを忘れたことがなかった。写真を撮るたび、彼女の笑顔が脳裏をよぎった。


そんなある日。


> “久しぶり。7時に、あのカフェで待ってる”




というメッセージが届く。


雨上がりの午後七時。カフェの前で蒼は待っていた。時計が19時を指したとき、あの笑顔が、そこにあった。




再会後、ふたりは少しずつ心を通わせ直していく。前よりもお互いをよく知っているからこそ、無理せずに素直でいられた。


ある夜、陽菜がぽつりと口にする。


「ねえ、また一緒に暮らさない?今度はちゃんと、向き合いたいの」


蒼は黙って頷き、そっと彼女の手を握った。





一年後の秋。


箱根の旅館。紅葉に染まる庭園。静かな池の前、蒼は陽菜の前に立つ。


「君と、またこうして笑い合えることが、何より嬉しい。……だから、これから先も、ずっと隣にいてほしい」


ポケットから小さな箱を取り出し、開いた。


「結婚してください」


陽菜は涙ぐみながら、静かにうなずいた。


「はい。よろしくお願いします」





春。桜が咲く頃。


家族と友人に囲まれ、小さな教会で式を挙げた。


誓いの言葉のとき、蒼の声は少し震えていた。


「陽菜、君が笑ってくれるだけで、世界が優しくなる。これからもずっと、一緒に笑っていたい」


陽菜は涙を拭いながら、そっと言った。


「あなたと出会えて、ほんとによかった。これからも、よろしくね」


鐘の音が鳴る中、ふたりは手を取り合って歩き出す。





それからさらに一年後、晴れた午後。


ふたりは公園のベンチに座っていた。陽菜のお腹には、新しい命が宿っている。


「ねえ、名前どうする?」


「うーん……“光”ってどう? 君と出会った日、あの桜の光みたいに」


「……いい名前だね」


蒼はカメラを構え、陽菜の横顔を撮った。


シャッター音が響く。


その瞬間、風がふたりの髪を揺らし、桜の花びらが空に舞った。


それは、確かに“幸せ”という名の一枚だった。


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