サシミが投げた針で体を引き裂かれたネクロファグスは、「ピギィィィッ!」と甲高い鳴き声を上げる。体の先端から真ん中あたりまでが、回転しながら地面に落ちた。ユタカの右目から伸びる残り半分がウネウネと波打ちながら動く。傷口から体が生え変わり、わずか数秒で再生した。
目を細め、ネクロファグスを観察するサシミ。
サシミ「清めの塩で作った仕込み針でも除霊できない。その上、傷は高速で再生する……か」
ネクロファグスは全身をくねらせながら、ユタカの右目の中に隠れた。明後日の方向を向いていたユタカの黒目が、正面に戻る。
ユタカ「はぁ〜あぁん。痛かったぁ〜」
サシミ「憑依した宿主が傷ついても、アナタ本体は痛みを感じない。アナタ本体を攻撃しても、すぐに再生してしまう……」
ユタカ「そうだねぇ〜。多分、キミじゃ手の打ちようがないと思うよぉ〜。ま、私もこの
サシミ「手詰まりだと決めつけるのは早いよ。アナタの再生能力には限界があるかもしれない。回数、切り刻む大きさ、切断以外の攻撃方法……試したいことがごまんとある」
大きなため息を吐くユタカ。
ユタカ「また実験に付き合わされるのはイヤだなぁ〜。実験をやめさせるなら、キミに乗り換えちゃうのがベストなんだろうけど……それも無理そうなんだよねぇ〜」
サシミ「なら、どうする?」
ユタカ「決まってるじゃ〜ん。逃げるんだよぉ〜ん」
ユタカはサシミに背中を向けて走り出す。すぐに追いかけるサシミだが、2人の距離はどんどん開いていく。サシミは50mを6秒台前半で走り、小学生の中ではずば抜けた足の速さを誇る。そのサシミでも、ネクロファグスに操られたユタカに追いつくことはできない。
公園の中に生い茂る木々の間を縫って進むユタカ。木が多くて走りにくい場所にサシミを誘い出すことで、さらに引き離そうとしている。サシミは苦し紛れに仕込み針を投げるが、ちょろちょろと動き回る
やがてサシミの視界からユタカの姿が完全に消えた。土についた足跡を辿って追跡しようとサシミがしゃがみ込んだとき、木々の奥の方から複数の懐中電灯の光が視界の隅に入った。騒ぎを聞きつけた近隣住民が警察官を呼んで駆けつけたのである。
サシミは「ちっ」と舌打ちをし、もと来た道を駆け足で戻っていった。
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PM 9:24
ユタカとその家族が住む団地の一室
リビングでテーブルを挟み、対面で座る40代前半の男女。白いワイシャツを着て青いネクタイを巻いた、仕事から帰ってきたばかりといった出で立ちの男性は、ユタカの父・コウジ。白と黒のボーダーシャツに、青いデニムを履いた女性は、ユタカの母・イクミ。
2人は神妙な面持ちで視線を合わせる。
コウジ「近くを探して回ったけど、どこにもいなかった……」
イクミ「……最近のユタカ、おかしいのよ。お兄ちゃんに似て家で遊ぶのが好きだったのに、1人で出かけることが増えて……悪いウワサばかり聞く子と遊んでるらしくて、PTAでも問題になってるの」
コウジ「……こんなこと言いたくないが、あの子はお前の血を受け継いでいる。学校をサボって、暴走族に入り浸ってたお前の血をな。だから、いつグレてもおかしくない」
コウジの発言を聞いたイクミはこめかみに青筋を立て、右の拳でテーブルを強く叩く。
イクミ「アナタだって同じ穴のムジナでしょ!?お金がないからって、道行く人の持ち物を引ったくってた盗賊団のメンバーだったくせに!」
眉間にしわを寄せ、イクミをにらむコウジ。何か言いかけるが、すぐに口を閉じて左手で額を押さえた。
コウジ「……とにかく俺たちの子は、社会的な『悪』のサラブレッドだ。道を外れてしまう可能性は他の家の子より断然高い。俺たちが正しい方向に導いてやらないと」
コウジの言葉を遮るように玄関の扉が開き、「ただいまぁ〜」というユタカの声が響いた。椅子から立ち上がり、ユタカがいる玄関へ行こうとするイクミ。しかし「俺が行く」とコウジが手で制す。
リビングを出たコウジ。廊下を歩くユタカの前で片膝をつき、視線を合わせた。
コウジ「こんな時間までどこに行ってたんだ?お父さんもお母さんも、めちゃくちゃ心配したんだぞ」
ユタカ「友達と遊んでたぁ〜」
コウジ「友達と遊ぶのが楽しいのはわかる。だけどな、小学生が夜遅くまで出歩くのは危険だ」
ユタカ「……たしかにねぇ〜。さっきも危ない目に遭ったしぃ〜」
コウジ「何かあってからじゃ遅いんだ。だから」
ユタカ「だからお前の体を寄越せ」
ユタカの右目からネクロファグスが這い出て、コウジの右目に飛び込む。眼球の隙間を突き進み、脳へと侵入。コウジは頭蓋骨の奥に締めつけられるような痛みを感じ、「がはぁぁぁっ!」とうめき声を上げながら頭を両手で押さえてうずくまった。
ネクロファグスが抜け出たユタカの体は、背骨が左横に90度折れ、手足があらぬ方向に曲がり、床に崩れ落ちる。
コウジの声を聞いたイクミが、不安そうな表情でリビングから廊下に顔を出した。コウジは「来るな……」と、かすれた声をひねり出す。
“私の寄生憑依に抵抗する気ぃ〜?やっぱり、子供と比べて大人の神経を支配するのは時間がかかるなぁ〜“
若い女性の声がコウジの鼓膜を揺らす。イクミのものではないが、家の中にはイクミの他に女性はいない。
“でも子供より大人のほうが自由に行動できるんだよねぇ〜”
女性の声は止まらない。コウジは痛みに耐えながら、姿が見えない声の主に質問を投げる。
コウジ「お前は……誰だ……?……ユタカに……何を……?」
“ちょっと体を借りただけぇ〜。次はアンタを
コウジ「お前……の……目的は……ユタカの……命……か……?」
“そんなちっぽけな目的なわけないじゃ〜ん。その子は近くにいたから乗っ取っただけぇ〜。別に誰でも良かったんだよねぇ〜”
コウジ「そんな……ユタカを……返せ……」
“無理無理無理っす〜。もう死んじゃってるからぁ〜"
コウジ「ユ……ユタカが……俺たちが何をしたっていうんだ……」
“別に何もしてなぁ〜い。けどまぁ、たしかにちょっと理不尽だったかもねぇ〜。マジメンゴォ〜。はい、謝った。だからもう良いでしょ〜?抵抗せず、さっさと乗っ取られてねぇ〜”
コウジ「……か、か、家族……家族を残して俺は死ねない……」
“あっ、そっかぁ〜、大黒柱ってやつぅ〜?なら不安だよねぇ〜?けど安心していいよぉ〜。アンタの家族、後で全員殺しておくからさぁ〜。これで残された家族はいなくなるから、不安もないでしょ〜?」
コウジ「だ……めだ……家族だけは……」
“あぁぁ〜意識、なくなっちゃうねぇ〜。なくなっちゃ……う……はい、なくなったぁ!完全に乗っ取りましたぁ〜!”
うずくまっていたコウジがすくりと立ち上がり、イクミのほうを向く。その右目からは、ネクロファグスの頭がはみ出し、ウネウネとうごめいていた。