焦った院は、少しでも平静を取り戻すべくその建物内部に入り込む。少しでも東仙に近づくべく、とにかく足を動かしたのだ。
しかし、その道中で、幻聴と思える声がそこかしこから聞こえてきたのだ。最初は敵襲かと感じた院は、その場で戦闘態勢を取るも、一向に敵はやってこない。若干の薄気味悪さを感じながらも、その建物内を下っていく。
聞こえる声は、実に楽しそうな子供の声だったり、両親と思える人物の笑い声だったり。院にとって、幻聴に近い状態で聞こえてくる意味が理解できなかったのだ。
(――この世界の成り立ちと、何か関係があるのでしょうか)
歩を早める院の前に現れる、数多くの写真風の絵画。通路や部屋中に、多くのそれが飾られていたのだ。
それら一つ一つをじっくりと見ると、楽しさの中に悲しさを感じ取れたのだ。いつか、この平穏な生活が崩れ去っていくのか、という、未来が見えているかのような絵画のタッチ。
「――これって」
院が言葉を失った、一枚の絵画。それは……今は無き埼玉郊外に存在していた、スラム街。それを高所から表した絵画であった。
「何で、スラム街が……?」
その疑問を解消していく、残虐な絵画たち。そこには、多くのものに虐げられているスラムの住人達の絵画。女子供一切関係なく、抵抗する者も無抵抗の者も、一切の感情の乱れなく平等に殺戮していく。
「ここまで鮮明に描かれているのは、なぜ……?」
次第に、小窓から見える空は下層に近づいていた。ワイヤーガンでかなりの距離を上ったはずなのに、建物内から下層に向かう場合は、実に体感として早いもの。速度は圧倒的にワイヤーガンの方が早かったはずなのに、絵画に秘められた感情を読み取りながら歩いているだけで、スタート地点近辺まで下りていたのだ。
これが、東仙がかなりの距離を落ちた院を、簡単に追跡できた理由だろう。
細かく納得していきながら、徐々に歩を早めていく。その理由は、先ほどから目に映る絵画と幻聴が、その惨劇のもの由来ばかりであったのだ。
肉を割かれ、爪を剥がれ。髪の毛など平気で毟り取り、犯してから見るも無残に惨殺。それが男女問わず、果てには子供である免罪符などあるはずもなく、等しく大人と同じ被害を受ける。ただただ気分が悪くなっていった。
その渦中に叩き込まれたかのような、不の感情ばかりが溢れ出してきそうだったのだ。
ただ生まれた場所が少し異なっていただけで、ここまで残酷になれる人間の醜さが、院の不快感を増幅させていた。
あまりにもの、血肉のオンパレード。涙など流れ落ちる前に、それぞれの肉体から実に温かい『いのち』が濁流のごとく流れ落ちていく。
そんな絵画や幻聴に苛まれながら歩を進めていくと、絵画や幻聴の雰囲気ががらりと変わっていった。それと同時にかなりの下層まで迫っていたのだ。遠くに感じていた東仙の魔力がそこまで距離を開けず、さらなる下層に、確かに存在しているのを感じるのだ。
触れていく絵画群に描かれているのは、今まさに存在する埼玉支部。そして多くの埼玉支部所属の『教会』メンバーたち。それぞれ、作者紹介かのように略歴が記されていたのだ。
しかし、その中で唯一、恨めしそうに。高尚な芸術作品をぶち壊すかのように、建物用の赤いペンキと巨大な刷毛でバツ印を付けていたのは、他でもないグラトニー。自分の所属する支部の頂点を、ここまで恨めしそうに考える理由は、そう多くはない。
一つの仮説に辿り着こうとする院の目の前に、急にルール説明のホログラムが現れる。理路整然と説明画面の役割を果たしていたはずの画面が、唐突に乱れ始める。まるでバグでも起こったかのように、ルール画面をもてあそんでいくノイズ。いくつかの文字だけが残り、その後アナグラムとして組み変わっていく。やがて出来上がった文章は、『どちらか一人しか脱出は出来ない』。
(実に――趣味の悪い。まだ入学前丙良先輩に叩き込まれた、あのゲーム空間の方が数百倍マシですわよ)
だんだんと、院はこの空間の正体に気付いていた。そして、この空間の持つ悪質性も。
『誰か』の意思とは真逆に進み続ける、それ以外に生き残る道のない最悪の世界。
「――この空間に取り残された者は……死ぬ。体のいい、自殺のフィールドということですわ」
階段を降り切ったその先には、当初の明るい雰囲気など微塵も感じさせない、陰鬱な表情の東仙であった。
「全て……俺が招いたこと。それに巻き込んだこと……非常に悪く思うよ」