秋風の吹く月曜日の朝、私は五十嵐商事本社ビル前にいた。
そびえ立つスタイリッシュな建物に、知的な雰囲気の男女が吸い込まれていく。
(今日から初出勤。ドキドキするなあ)
朝目覚めた瞬間から、胸の鼓動が止まらない。
こんな気持ちは、遠足前の小学生時代以来である。
マナトさんからは夕べ電話があった。
自分も新人社長だから気楽に行こう、と優しい言葉をかけられてホッとしたのを覚えている。
それでも緊張は隠せない。何から何まで新しいことばかり。
環境が変わるだけでなく大企業の社長秘書という立場も特別すぎてうまくこなせるのか不安になる。
ロビーに入り受付の女性に教えられ、最上階の社長室へ。
(ああ、もう引き返せない)
ちん、と言うエレベーターが止まる音と同時にそう思う。
頭の中にマナトさんの姿が浮かんだ。これから彼に会う。
何度顔を合わせても、しばらく経てば距離感をあけてしまう私。
コミュ障気味な性格が悩ましい。
それでも。
(私らしく、全力を尽くそう)
私は心の中でそう言って、自分自身を励ました。
◇◇◇
社長室は廊下を進んで一番奥らしい。
総務や人事課などの表示が並ぶドアを通り過ぎ、目的の場所へ。
廊下の突き当りにある踊り場程度のスペースに、無人のデスクがあり、そこから少し目線をあげたところにガラス張りの四角い部屋があった。
外から中が丸見えだが、とてもスタイリッシュな内装なので、部屋全体が素敵なオブジェのようにさえ見える。
入口ドアのプレートでそこが社長室なのだとわかった。
受付から連絡が来ていたらしく、ノックの前にドアが開き、デザイナーズスーツをパリッと着こなしたマナトさんが私を室内へと招き入れてくれた。
「おはよう。みかりん」
よく通る美声と、背景に散る薔薇の花を感じられるほどの華やかな笑顔。
胸の鼓動が激しくなる。そしてその瞬間気がついた。
さっきから私の心臓を押し上げているのは……この人と対峙することへの緊張が大きかったのだ、と。
神を前にした畏れ、とでも言うか、あまりにも、彼のまとう空気が特別すぎる。キラキラと輝いていて傍にいる人を圧倒させてしまうのだ。
「君が来てくれて嬉しいよ。本当に引き受けてくれてありがとう」
声も態度もいつも通りのマナトさんだ。
余裕があってノリが軽くて、背負っているはずの重圧なんてその佇まいからは微塵も感じられない。
こんなに危険性のない人なのに、どうしてここまでドキドキしてしまうんだろう。
(この人を支えたいって気持ちは本物なのに……)
もっと、ちゃんとしたい、と心から思う。
マナトさんが甘えられるような、頼りがいのある秘書に。
頭ではそう思うのに体はガチガチである。
とはいえ、いつまでも緊張ばかりしてはいられない。
表情の強張りはどうしようもないけれど、せめて声だけは元気でいよう。
「おはようございます。ふつつかものですが、よろしくお願いします!」
私は深々と頭を下げた。
「ふつつかもの……」
顔を上げると何やら考え込んでいる風情のマナトさんが目に入った。
(あ、私、何かおかしなこと言ったかな?)
「その挨拶、なんかさ、新婚初夜みたいだよね」
「しょ、初夜!?」
想像外なセリフにドキッとした。
朝から、しかもオフィスで聞くワードにしては生々しすぎる。
マナトさんは続けた。
「それも昭和の。布団の前で三つ指ついてさ。わかるかな。映画とかで時々見るんだけど」
ちょっと待って。
具体的なビジュアルまで告げられて……私の顔はますます赤らむ。
どうしよう。
私は昔から、空想壁がある。そして日本映画は大好きだ。
畳敷きの部屋に置かれた布団。
和装の寝間着姿の私たち。
マナトさんのせいで、そのまんまの妄想が頭の中に浮かんでしまった。