「おいで。みかりん」
腕をとられて、引き寄せられる。
当然のように心臓は早鐘を打っており……。
「どうしたの? 俺がリードするから大丈夫だよ」
優しく、そして甘い眼差し。
だ、だ、ダメだ。
オフィスでこんな淫らな妄想なんて浮かべてちゃダメ!
それなのに。
「秘書はやめて嫁に来る? 俺、それでも構わないけど」
真っ赤になった私に、マナトさんは追い打ちをかけた。
嫁、なんて……!
確かバーでも似た話は出たけれど、その時は「付き合う」という言い方だった。
それが今回はいきなり「嫁」にバージョンアップ!
追い払ったはずの妄想が再び浮かんだ。
今度の舞台は小さな2DKほどのマンションで。
エプロン姿で彼の朝食を作っている私。
パジャマ姿のマナトさんが欠伸をしながらキッチンに入ってくる。
「おはよう。みかりん。何作ってるの?」
朝なのに凄まじいキラースマイル。
あああ、私の顔は多分、茹でダコみたいに真っ赤になっているだろう。
私は怪しげな妄想を激しく首を振って払いのけた。
「ま、ま、ま、マナトさんったら、そういうの、やめてください……心臓が持たない……」
私は情けなく白旗をあげる。
「なんてね。面白いなあ。みかりんの七変化。見てて飽きない」
マナトさんはクスクス笑っている。
どうやら冗談だったみたい。いや、もちろん分かっていたけれど……。
ホッとするような悔しいような複雑な気持ちが胸の中をよぎる。
ちょっとしたからかいを真に受けあわあわするなんて。
25歳にもなって情けない。私はもっと冗談に慣れるべきだ
「すみません。秘書なのにうまい返し方ができなくて。これから少しずつお笑いのお約束を覚えます」
私は神妙に頭を下げた。
数日前、明子にこんこんと言われたのだ。
私にはユーモアが足りないと。
天然には天然の良さがあるけれど、大企業の秘書たるもの、面白く会話を転がすテクニックを養うのは大切、という、客商売のベテランからの貴重なアドバイス。
マナトさんの目が優しげに和らぐ。
「何言ってんの。無駄な努力はしなくていいよ」
「無駄、でしょうか」
「だってさ、この数分で何回、君の可愛いところ見たと思う? たまんないよね。それってむしろ武器じゃない?」
「可愛いというより、バカって言いますか」
と言いながら、がっかりはさせてないとわかりホッとした。
マナトさんは真剣な顔でこう告げる。
「賢くないと搾取される。もっとずる賢く生きるべき。なんて、どこかの誰かが言ってたよね。でもその考えはやめたんだ。見ていて可愛いバカは天然記念物として保護すべき」
「はあ……」
(当然、そのバカって私の事だよね)
肩の力がすっと抜けた。
(そのまんまの自分でいいって言われるの、凄く嬉しい……飾らなくて済むから……)
もちろん、今のままじゃ全然ダメ。
でも無理して背伸びをしなくていいのだ、と、マナトさんに言われた気がした。
私はハッとした。
「もしかしてマナトさん、私をリラックスさせようとしてくれました? 緊張をほぐしてくださったんですか?」
「ふふふ。どうだろうね」
マナトさんは意味ありげに笑っている。
(この表情、絶対にそうだ)
「ありがとうございます。気持ちが楽になりました」
「それは良かった。がちがちな君もフレッシュでいいけど、笑ってる君の方がやっぱりいいから」
優しい眼差しが、更に優し気に細められる。
(息を吸うように褒めてくれる人だなあ)
この人にかかると冴えない私が、価値あるもののような気がしてくるから不思議だ。
マナトさんはこう続けた。
「俺を楽しませたご褒美にコーヒーを淹れてきてあげる。座って」
「あ、私が淹れます。給湯室は」
秘書たるもの、そこは動くべきだろう。
「今日だけだから座ってて。何か入れる?」
「いいえ。ブラックです」
「わかった。少々お待ちを」
おどけてかしこまるマナトさん。そんな姿も王子っぽくて様になっているから恐ろしい。
私は恐縮しながらも黒革のソファへ腰かけた。
窓際の一番奥、パーテーションに仕切られたスペースへマナトさんは消え、やがてコーヒーを二つ、トレイも使わずに持ってくると、テーブルに置いた。
そして私の正面に座る。
「ありがとうございます。ああ、いい香り」
大きく息を吸い込んで、自然に唇に笑みが浮かぶ。
「ふふっ。そうそう。その笑顔。最高だね」
マナトさんは、目を細めている。
私の何気ない仕草のすべてを、マナトさんは好意的に見てくれているようだった。
きゅん、と胸が甘くきしむ。
最初はマナトさんの外付けパーツとして目をつけてもらった。
道具扱いしてごめん、ってマナトさんは謝っていたけれど……。
今、目の前にいる彼の表情を見ると思うのだ。
道具でも、誰かの宝物になるなら、全然アリなんだな、って。
熱いものがぐっと喉元までこみあげてきて、私は照れ隠しのように湯気の立つカップを手に取った。
黒い液体を口に含む。
「優しい味……」
私は一瞬目を閉じる。
「真心の味がします……凄く美味しい……」
やっと心がほぐれてきて、私は笑顔でそう言った。
するとマナトさんは何故かこめかみに指をつけて、悶絶のポーズをとる。
「どうしました? マナトさん」
「いや、無自覚天使ビームを食らっちゃって……」
「えっ?」
私はドギマギしてしまう。
「私ったら、また何か変な事言ったんですね? ごめんなさい」
「いいや。違う。逆だ。あまりにも可愛くて、死にそうになっただけ」
「死にそうって」
「君って清流の香りがするんだよね。今ので部屋が一気に浄化されたよ」
「浄化だなんて」
「父曰く、俺は悪魔だからな。言うなればここは瘴気が渦巻いているんだよ。それが今ので一掃された」
私はパタパタと手を顔の前で左右に振った。
「そんなっ。普通ですよ。私なんて」
「いいや。足りない。もっと君にふさわしい言葉があるはずだ……うん。どうしてこんなに清らかなんだろうな。俺にとっては現代におけるミステリーだよ。君のルーツが知りたくなった」
そう言うと、マナトさんはすっくと立ちあがる。
「我慢してたんだけど、無理」
そう言うと、私の隣に移動してきた。
しかも……。
(ち、近い!)
互いの腕と腕が、そして膝が……!
ほんの少しだけど触れている。
「今日さ、ベッドから起きて目が覚めた時思ったんだ。今から君に会えるんだ、って。そしたらすごく嬉しくなった。それだけじゃない。これから毎日君の可愛いところや、天然なところが至近距離で見られると思うと……人生って最高だなって心から思えた。でさ、それが今現実になってるわけだけど、想像の何倍もワクワクしてて、びっくりしてる。俺はそのまんまの君が好きだ。だから無理に変わろうとしないで。約束して」
さりげなく言われただけなのに、好き、というフレーズに過剰反応を起こしてしまい、全身の血が頬に上がっていくのがわかる。
「わ、私も好きです。マナトさんが」
思わずすぐ近くにある、彼の手をぎゅっと握ってしまった。
「み、みかりん?」
マナトさんの美しいアーモンド型の目が倍以上大きく見開かれる。
さっきはほんの少し体の一部が触れただけでドキドキしていたのに、もう、それどころじゃないほど感動していた。
「人としてっ、ってことですけどっ」
変な勘違いはしてませんから、安心してください、と言いたくて、私はついつい早口になる。
「私も、目が覚めた瞬間に思いました。今日から新しい世界に飛び出すんだ、って。マナトさんが今言ってくれたような事、ほとんど思ってしまいました」
「気が合うね。俺たちって前世は双子だったかも」
「そうかもしれません!!!」
マナトさんはギュッと私の手を握り返してくれた。
最初こそ戸惑っているようだったのに、このノリに付き合ってくれるなんて、彼の方こそ、優しくて川の流れのように純粋な気がする。
「あなたを特等席で見られるのが嬉しいです。私、全力でお仕えしますから。改めてよろしくお願いします」
ちゃんとビジネスっぽい言葉に置き換えて、私は失敗した挨拶をやり直す。
自分と同じように、マナトさんも、私との未来に希望を持っているとわかりふつふつと喜びが湧き上がってきた。
「きっと邪な気持ちとか全然なくて、素直に言ってくれてるんだろうなあ。でも、タイミングが大事だから。今はそれでよしとしておく」
囁き声より小さくて、私はうまく聞き取れなかった。
「マナトさん……?」
首を稼げる私を見て、マナトさんはにっこり笑う。
「うん。みかりん、末長くよろしくね」
背後に薔薇が見えるようなキラースマイル。
今度はマナトさんの方が結婚式前の挨拶みたいで……。
彼と固く手を握り合いながら、私の脳裏には新たな妄想が浮かび上がっていたのだった。