日付が変わった頃、マンションのチャイムが、けたたましく鳴り響いた。
「ったく、こんな時間に誰だよ……」
遅いコーヒーでくつろごうかと思っていた田中は、眉根をひそめる。
まさか酔っ払い?
厳重なセキュリティで守られているはずのこのマンションでも、時折迷惑な訪問者が現れる。酔っぱらうくらいなら飲まなければいいのに、とへべれけになった住人仲間を見る度に呆れてしまう田中だった。
しかし、ドアを開けた田中が目にしたのは思いがけない人物だった。
「は? マナト!? な、なんで!?」
田中は文字通り目を丸くする。
マナトとは長い付き合いで互いの部屋を行き来する仲ではあるが、今日はあれほど気合を入れたデートである。
その締めくくりにここを訪れるとは意外にもほどがある。
マナトの顔は少し赤らみ明らかに動揺していた。
田中の問いかけにも答えず、マナトはそのまま田中の部屋に上がり込んみ、リビングでくるりと振り返る。
「不思議な事が起きた」
そして、俯き胸を押さえた。
「大丈夫か!?」
尋常でないマナトの様子に、田中の眠気は吹き飛んだ。
「胸が痛いのか? それなら救急車を」
「違う」
マナトは顔を上げた。
「彼女のせいだ」
田中はそれで全てを察した。
「そうか。振られたのか。神がかったイケメンでもそういう事はあるんだな。でもおかげで俺はお前が以前よりほんの少し好きになった。やけ酒なら付き合うよ」
「ちがう。振られてない」
マナトは否定した。
「はあ? じゃあ、付き合う事になったのか? お前、もう帰れよ」
「それも違う」
マナトは続けた。
「キスされたんだ」
「はあ!?」
今度こそ、田中は素っ頓狂な声を上げた。
「キスされたんだ! 俺からじゃなくて彼女からいきなり」
マナトは、その時の状況を思い出しているのか、顔を赤くしている。とてもじゃないが、普段のマナトからは想像できない、まるで高校生のようなピュアな興奮が伝わってきて、田中は思わず息をのむ。
「マンションの前で……!『私たちの挨拶です』だって…… なんだあれ! なんなんだあの可愛い生き物は! 俺の心をどうしたいんだ!」
興奮冷めやらぬといった様子で、マナトはまくし立てている。
(すごいな。そうか、これが……そうか)
田中は、そんなマナトの様子を呆然と見ていたが、やがて、口元に小さな笑みが浮かんだ。そして、それがだんだんと大きくなっていく。
「ふっ…はははは! マジかよマナト!」
大声で笑い始めた田中を見て、マナトはさらにムッとした顔をした。
「……何がおかしい」
「いや、これは我慢できないだろ。あの五十嵐マナトが、女からのキス一つでこんなになるなんて! しかも、自分からキスしたんじゃなくて、された側で!」
田中は涙目になりながら笑っている。その様子を見て、マナトはさらに不機嫌になった。
「お前には分からないんだよ! 俺の気持ちが!」
「そりゃそうだよ。だって、俺、主人公属性じゃないからさ。そんなに熱くなれないわ。まあ、座れ」
田中はソファに腰かけ、マナトを招く。
マナトはおとなしく従った。
「昼間、明子さんが言ってたんだ。俺たちって、なんかモブキャラだよな、って」
唐突な田中の言葉に、マナトは眉をひそめた。
「なんだいきなり」
「いや、なんていうかさ。こう、真正面から感情をぶつけ合ったり、予期せぬハプニングに振り回されたり……そういうのって、多分この先も一生俺らには起きない。その点、朝倉さんとか、お前とは違うよな、って」
田中は、遠い目をして語る。
「面白い視点だなってその時は思ったんだけどさ、なんか、今のお前を見ると確かにな、って」
マナトは興奮が冷めたように田中をマジマジと見ると、いきなり指でその額をはじいた。
「てっ。何すんだ」
「確かに俺は、この世の主役だ。選ばれし人間。彼女もそうだ」
「だよな~」
「けど、お前だって人生の主役だろ?」
田中はマナトを見つめながら言った。
「うーん。いいこと言ってくれたつもりかもだけど、なんか響かない」
「なるほど。ま、とにかく、気が済んだよ。帰る」
嵐のように現れ、言いたいことだけ言って嵐のように去っていく親友の背中を、田中は呆然と見送るしかなかった。そして、一人残されたリビングで、ぽつりと呟く。
「くそ。眠れなくなったじゃないか……」
ふと、テーブルに置いたスマホが点滅しているのに気が付いた。
「明子さんかな」
別れ際に連絡先を交換した。
新しい季節が、自称モブキャラ男にも訪れようとしていた。