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第66話 深夜の訪問者

 日付が変わった頃、マンションのチャイムが、けたたましく鳴り響いた。


「ったく、こんな時間に誰だよ……」


 遅いコーヒーでくつろごうかと思っていた田中は、眉根をひそめる。

 まさか酔っ払い? 

 厳重なセキュリティで守られているはずのこのマンションでも、時折迷惑な訪問者が現れる。酔っぱらうくらいなら飲まなければいいのに、とへべれけになった住人仲間を見る度に呆れてしまう田中だった。

 しかし、ドアを開けた田中が目にしたのは思いがけない人物だった。


「は? マナト!? な、なんで!?」


 田中は文字通り目を丸くする。

 マナトとは長い付き合いで互いの部屋を行き来する仲ではあるが、今日はあれほど気合を入れたデートである。

 その締めくくりにここを訪れるとは意外にもほどがある。

 マナトの顔は少し赤らみ明らかに動揺していた。

 田中の問いかけにも答えず、マナトはそのまま田中の部屋に上がり込んみ、リビングでくるりと振り返る。


「不思議な事が起きた」


 そして、俯き胸を押さえた。


「大丈夫か!?」


 尋常でないマナトの様子に、田中の眠気は吹き飛んだ。


「胸が痛いのか? それなら救急車を」

「違う」


 マナトは顔を上げた。


「彼女のせいだ」


 田中はそれで全てを察した。


「そうか。振られたのか。神がかったイケメンでもそういう事はあるんだな。でもおかげで俺はお前が以前よりほんの少し好きになった。やけ酒なら付き合うよ」

「ちがう。振られてない」


 マナトは否定した。


「はあ? じゃあ、付き合う事になったのか? お前、もう帰れよ」

「それも違う」


 マナトは続けた。


「キスされたんだ」

「はあ!?」


 今度こそ、田中は素っ頓狂な声を上げた。


「キスされたんだ! 俺からじゃなくて彼女からいきなり」


 マナトは、その時の状況を思い出しているのか、顔を赤くしている。とてもじゃないが、普段のマナトからは想像できない、まるで高校生のようなピュアな興奮が伝わってきて、田中は思わず息をのむ。


「マンションの前で……!『私たちの挨拶です』だって…… なんだあれ! なんなんだあの可愛い生き物は! 俺の心をどうしたいんだ!」


 興奮冷めやらぬといった様子で、マナトはまくし立てている。


(すごいな。そうか、これが……そうか)


田中は、そんなマナトの様子を呆然と見ていたが、やがて、口元に小さな笑みが浮かんだ。そして、それがだんだんと大きくなっていく。


「ふっ…はははは! マジかよマナト!」


 大声で笑い始めた田中を見て、マナトはさらにムッとした顔をした。


「……何がおかしい」

「いや、これは我慢できないだろ。あの五十嵐マナトが、女からのキス一つでこんなになるなんて! しかも、自分からキスしたんじゃなくて、された側で!」


 田中は涙目になりながら笑っている。その様子を見て、マナトはさらに不機嫌になった。


「お前には分からないんだよ! 俺の気持ちが!」

「そりゃそうだよ。だって、俺、主人公属性じゃないからさ。そんなに熱くなれないわ。まあ、座れ」


 田中はソファに腰かけ、マナトを招く。

 マナトはおとなしく従った。


「昼間、明子さんが言ってたんだ。俺たちって、なんかモブキャラだよな、って」


 唐突な田中の言葉に、マナトは眉をひそめた。


「なんだいきなり」

「いや、なんていうかさ。こう、真正面から感情をぶつけ合ったり、予期せぬハプニングに振り回されたり……そういうのって、多分この先も一生俺らには起きない。その点、朝倉さんとか、お前とは違うよな、って」


 田中は、遠い目をして語る。


「面白い視点だなってその時は思ったんだけどさ、なんか、今のお前を見ると確かにな、って」


 マナトは興奮が冷めたように田中をマジマジと見ると、いきなり指でその額をはじいた。


「てっ。何すんだ」

「確かに俺は、この世の主役だ。選ばれし人間。彼女もそうだ」

「だよな~」

「けど、お前だって人生の主役だろ?」


 田中はマナトを見つめながら言った。


「うーん。いいこと言ってくれたつもりかもだけど、なんか響かない」

「なるほど。ま、とにかく、気が済んだよ。帰る」


 嵐のように現れ、言いたいことだけ言って嵐のように去っていく親友の背中を、田中は呆然と見送るしかなかった。そして、一人残されたリビングで、ぽつりと呟く。


「くそ。眠れなくなったじゃないか……」


 ふと、テーブルに置いたスマホが点滅しているのに気が付いた。


「明子さんかな」


 別れ際に連絡先を交換した。

 新しい季節が、自称モブキャラ男にも訪れようとしていた。


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