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第65話 ラストシーン

 事前アンケートはお店ありきで選んだから、メニューは簡単に「フランス料理」と記載した。メニュー表には金額が表示されておらず、フランス語で書かれているため、何を頼めばいいのか迷う。


「確か甲殻アレルギーはなかったよね。オマール海老のパイ包みは絶品らしいんだ。それから……」


 どうやらアンケートだけでなく、普段の会話でも、リサーチされていたらしい。

 喜びと同時に、どうしてそこまで、と少しだけ疑惑が胸をよぎる。しかし、それも一瞬だ。

 彼の優しい眼差しが、いつでも真っすぐ私に向けられていると、言葉だけじゃなく行動で伝わりドキドキが止まらない。

 マナトさんはテーブルマナーも完璧で、終始スマートに振る舞っていた。 

 当然のように、周囲の視線を浴びている。


「いいなあ。あの子」

「羨ましい」


 水族館だけでなく、ここでも私たちは恋人同士に見えるらしい。


(光栄だわ……)


 まるで、おとぎ話のプリンセスになったみたいに、私の心はふわふわと宙に浮いていた。


 レストランを出て、私たちは水族館の裏手にある、静かな砂浜へと足を向けた。

 波の音が、ザザァ……ザザァ……と、響いている。


「ちょっと寒いかな」


 マナトさんはジャケットを脱ぎ、私の肩にかけてくれた。


「ありがとうございます。でも……」

「俺なら平気。君に風邪をひかれるほうが辛い」


 さらりとそう言うマナトさん。どこまでも優しい。

 ふわりと漂う彼の香り。まだ温もりが残るジャケットに包まれると、まるで抱きしめられているような錯覚に陥った。


 顔をあげると、そこには数えきれないほどの星が、キラキラとまたたいていた。街中では、こんなにたくさんの星を見ることは絶対にない。


「綺麗……宝石みたい……」


 感動のため息と共に、そんな言葉が私の唇からこぼれ落ちた。

 夜空と海のコラボレーション。

 今日のこのロマンティックな景色を、大好きな人と一緒に見ている。その幸福感で胸がいっぱいになる。

 ふふっ、とすぐ隣から楽しそうな笑い声がした。


「また夢中になってる。昼間もそうだったけどさ、前を向いてないと転ぶよ」


 マナトさんが優しい目をして言う。


「あ、はい。きゃっ」


 気をつけなきゃと思った瞬間、自分でも情けないくらいにあっさりと、よろめいてしまう。

 砂に足を取られたのだ。


「ほら、危ない」


 マナトさんが腕を引いて支えてくれた。

 想像していたよりもずっと大きくて、がっしりとした彼の手。その力強さと熱っぽさに、頬が赤くなる。


「ありがとうございます。私ったら」


 夜だからか、ロマンティックすぎるシチュエーションだからか、私の胸はドキドキと早鐘を打っていた。


 その時だった。

 ヒュウ、と、空気を切り裂くような鋭い音がして、夜空に一筋の光の矢がのぼっていく。  次の瞬間、パン!と、ダイナミックな破裂音と共に華麗なる光の花が、頭上いっぱいに広がった。

 花火だ。


「わぁっ……!」


 予期せぬ、あまりにも見事なサプライズに、私は驚きと感動で、思わず大きな声を上げた。

 次から次へと打ち上げられる花火が、暗い夜空を色鮮やかに染め上げていく。

 赤、青、緑、そして金色。夜空に咲き誇る壮大な光の花を見上げて、私はすっかり我を忘れた。


「こんなに近くで花火を見たの……初めてです!!! なんて綺麗なの……!!!」


 シャチとか、クジラとか。ジンベイザメとか。

 私は大きくてダイナミックなものが大好きだ。

 花火は人が作ったものだけれど、まるで夜空に浮かぶ生きものにも見えて……非日常のきらめきに、魂ごと奪われてしまいそうになる。

 ただただ花火の美しさに目を奪われていると、ふと、隣にいるマナトさんの強い視線を感じた。


「……マナトさん?」


そして私は、マナトさんが私の顔をじっと見つめていることに気づいた。

 打ち上がる花火の光が、彼の端正な顔を幻想的に照らし出している。瞳には私が映っていて……やっぱり想像通り、頬が赤い。でもとても幸福そうだ。


「……ああ。本当に、綺麗だ」


 マナトさんは、夜空の花火ではなく、私を見つめたまま、そう囁いた。

 瞬間、私の顔は、きっと今打ち上がっているどの花火よりも、熱く、そして赤く染まったに違いない。心臓が、破裂してしまいそうなほど激しく鳴り響く。

 ドキドキしすぎて、息をすることさえ忘れそう。


(こ、この人……! 今、なんて、言ったの……! ?)


 夜空に咲き乱れる花火の音も、寄せては返す波の音も、もう何も聞こえなくなった。

 私の中に鳴り響いているのは、自分の心臓の激しい鼓動と、マナトさんの甘く響く言葉だけ。

 顔が真っ赤になっているのが、自分でもはっきりと分かる。

 恥ずかしすぎて、もうマナトさんの顔をまともに見ることができない。

 私は思わずうつむいて、キュンとしすぎてどうにかなりそうな胸を、両手でぎゅっと押さえた。

 やがて、最後の大きな花火が夜空に咲き誇り、静寂が浜辺に戻ってきた。


「……花火、すごく綺麗でしたね。本当に、ありがとうございました」


 なんとか絞り出した声は、自分でも情けないくらいに震えていた。


「良かった。正直、ちょっと不安だったんだ。張り切り過ぎたかなって」


 マナトさんは少し頬を赤らめている。


「張り切り過ぎた? えっ!? 花火、もしかしてマナトさんが!?」

「うん。気づいてなかったの? 自分で暴露するなんてダサいね」

「そんな事ないです!! ありがとうございます!!!!」


 もう、プリンセス気分どころじゃない。

 私は恐縮してペコペコと頭を下げたのだった。


 帰りの車内は、高揚感と寂しさとが入り混じった不思議な空気が流れていた。

 花火でボルテージが上がってしまい、なんだか、そわそわしてしまう。

「綺麗」って、私に向けられた言葉の気がした。確かめたいけど恥ずかしい。

 それに……まだ、まだ彼と一緒にいたい。

 特別な一日が、フィナーレを終えて、エンドマークへと向かっているのが切なかった。

 やがて、私の住むマンションの前に車が止まる。


(もう本当にラストシーンだ)


 胸の奥がまたチクリと痛んだ。

 マンションについて、車から降りたマナトさんと向かいあう。夜風が、少し肌寒い。


「……今日は、本当に、ありがとうございました。水族館も、レストランも、それに、花火も……全部、すごく、すごく楽しかったです」

「次の休みはどこに行きたい?」


 間髪入れずにそう言われる。


「え……?」


 また、次が……あるの?


「ああ、もう遅いから明日教えて。じゃ、またね」


 あっさりと彼はそう言った。


「……じゃあ」


 別れの言葉を口にしようとして、言葉に詰まった。このまま去り行く車に「ありがとうございました」と頭を下げるのがデートのクライマックスなのだろうか。

 それは、あまりにも、寂しすぎる。

 それに……。


(私のためにあんなに頑張ってくれたマナトさん。私がどれほど嬉しかったか、言葉じゃなくて態度で伝えたい……)


 衝動的に、私の体が動いた。

 気づいた時には、マナトさんとの距離をぐっと詰めて、少しだけつま先立ちになって、彼の唇に、不意打ちのキスをしていた。


「っ!?」


 一瞬、マナトさんの体が驚きで強張ったのを感じた。

 触れるだけの、ほんの短いキス。

 けれど、私にとっては、生まれて初めて、自分からしたキスだった。

 マナトさんは何も言わずに、ただ私を見つめている。

 その瞳に、ありありとした驚きと、そして、何か、私にはまだ読み取れない複雑な感情が浮かんでいるのが見えた。彼の表情は、まるで時間が止まってしまったみたいに動かない。


「……わ、私たちの、いつもの挨拶、です……から」


 訪れた沈黙が怖くて、思わず口から飛び出したのは、そんなしどろもどろな言葉だった。自分でも、なんて大胆なことをしてしまったんだろうと、心臓がバクバクと激しく鳴っている。恥ずかしすぎて、今すぐにでも消えてしまいたいような気持ちとスッキリしたような、不思議な達成感が入り混じっていた。


「……じゃあ、私、これで失礼します! 今日は本当に、ありがとうございました!」


 これ以上この場にいたら、何をしでかすかわからない。私は、そのままマナトさんにくるりと背を向け、早足でマンションのエントランスへと向かった。


 振り返らなかった。

 彼の顔が、今、どんな表情をしているのか、確かめる勇気がまだなかった。


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