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第64話 海辺のレストラン

 マナトさんがエスコートしてくれたのは、海が一望できるガラス張りのレストランだった。

 夜の帳が下り始めた窓の外には静かな海が広がり、テーブルの上ではキャンドルの炎が一つ、優しく揺れている。


「ここ、来たかったんです……」


 私が椅子に座ろうとすると、いつの間にか後ろにいたマナトさんが、すっと椅子を引いてくれた。

 窓際の、海がすぐそばに見える特等席に腰かける。

 紳士的なエスコートに、ただでさえ高鳴っていた心臓がさらに鼓動を早めていた。


「なんだか夢を見ているみたい……だって、ここに来てからずっと願いが叶いっぱなしなんです」


 私は少し上ずった声でマナトさんにそう告げた。


「ん? 夢?」


 マナトさんは優しい目で私を見つめている。


「社内アンケートで答えた理想のデートプランが次々に実現しているんです……まるで誰かがこっそり読んで叶えてくれたみたいに」


 私の言葉に、マナトさんがいたずらっぽく片眉を上げた。

 その表情にはっとする。

 そうだ。ペアチケットは田中さんにあげたはず。ということは……?


「あ、あの、マナトさん、ごめんなさい! 私ったら、すっかり舞い上がってしまって……。ここ、田中さんと予約してたんですよね? どうしましょう」


 その田中さんは明子と夕食をとるらしい。それも素敵だとは思うけれど……本当ならここに座っているのは彼だったのに。連絡があった時、その事に気がつけばよかった。私ったら配慮なさすぎ。

 慌てて頭を下げると、マナトさんはきょとんとした顔で私を見つめ、それから、こらえきれないといったように吹き出した。


「ははっ、本当にみかりんは面白いなあ。うん、確かに、予約はしてたよ。ほら」


 彼の大きな手が私の手をそっと包み込む。


「よーく見て」


 彼の視線をたどり、ネームプレートに目を落とす。

 そこにあったのはマナトさんと……私の名前だった。


「最初から君と一緒に来るつもりだった。あいつは俺の計画に協力してくれただけだよ」


 彼は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「え……? 計画……?」


 意味がわからず私は彼の目をじっと見る。


「きみに最高のデートをプレゼントする。それが今日のミッションだ……なんて言うとかっこつけすぎかな。でも本気だよ。君のとびっきりの笑顔が見たかった」


 涼しい顔で語られて私は唖然としてしまった。


「じゃ、あの、アンケートは」

「君だけのアンケートだ。『行ってみたい場所』や『好きなもの』。君の好みや憧れを把握するためにね」

「水族館と、シャチのショーも……」

「君をエスコートするための情報収集。最高のデートを演出して君に喜んでもらうと思って」


 彼の言葉に思考が止まる。ふと隣の椅子に座らせたシャチのぬいぐるみに目を向けると、彼が照れ臭そうに付け加えた。


「あー、クレーンゲームはリハーサルしたよ。3回くらい。すぐコツを掴んだけどね」


 リハーサル……。

 その言葉の飲みに今度こそ本当に頭の中が真っ白になった。



「ごめんね。怒った?」


 少し心配そうに私を見るマナトさん。


(確かに少しショックだ……嘘をつかれていたのは事実だし、1人だけ舞い上がってたのが恥ずかしい……)


 そういえば明子ですら、何か感づいていた気配がある。私ったら本当に情けないほど鈍感である。

 そんな私のことをマナトさんはどう思っていたんだろう。


(でも)


 情けない気持ちで胸がいっぱいなはずなのに……。

 それ以上の熱い何かが私の心を満たしていく。

 私はブルブルと首を左右に振った。


「怒ってなんか……ま、マナトさんと来られて、すごく、すごく、嬉しいです……!」


(ああ、言っちゃった……!)


 感謝や戸惑いを通り越してただ本音が溢れてしまった。かっと顔が燃えるように熱くなり、慌てて両手で顔を覆う。

 マナトさんは、そんな私を見て、くしゃっと笑うと、テーブルの向こう側から少し身を乗り出し私の耳元にささやいた。


「俺もだよ」


 吐息がかかるほどの距離で告げられた言葉に心臓が大きく跳ね上がる。顔を覆っている手のひらまで熱い。


「はああ、ホッとした。今日のこの日のために、色々たくらんだ甲斐があったよ」


 私の真っ赤になった顔を見て、彼はそれ以上何も言わなかったけれど、その瞳は、本当に楽しそうに、そしてどこか愛おしそうに輝いていた。


「あの、マナトさん……」

「ん?」

「どうして、ここまでしてくださるんですか……? 私、ただの秘書なのに……」


 期待してはいけない、と自分に言い聞かせながらも、どうしてもその理由が知りたくて、私はおずおずと尋ねた。

 マナトさんは、一瞬だけ真顔になると、すぐにいつもの軽い調子に戻って、こう言った。


「大切な秘書に、日頃の感謝の気持ちを伝えたかった。それに、」

(それに?)

「君が喜ぶ顔を見るのが、俺は一番好きだから」


 彼はそう言うと私の頬にそっと触れた。


(……好き、だから……)


 その言葉が甘いしびれのように私の心の中に広がっていく。

 もちろんこれは上司が部下を大切に思う、労いをこめた言葉だと頭ではわかっている。けれど。

 こんなに優しい声で真剣な瞳で「好き」なんて言われたら、期待するなと言う方が無理だ。

 私は、あふれ出しそうな思いをぐっと噛み締め、顔を上げた。


(今はまだ彼の気持ちを確かめる勇気はない。でも……いつか。その言葉に胸を張って応えられるような私になりたい)


 彼の瞳に映るキャンドルの炎を見つめながら、私は心に強く誓った。

 彼はふっと目を細める。その薄い唇にはすべてを見透かすような、それでいてとてつもなく優しい笑みが浮かんでいた。

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