古いレンガのとある飲食店、隅のテーブル席で水を飲む少女。
歳は一〇代後半、ブロンドヘアを三つ編みにしているが、赤いコートのフードで隠している。
ボルトアクションライフルをソファに立てかけ、腰ホルスターに九ミリ口径の自動拳銃を装備。
厨房から強火で炙った鉄の音を聴く。
「なぁ赤ずきん、知ってるか? 最近人食い狼が流れてきたんだと」
太く渋い声が赤ずきんの耳に届いた。
黒髪をオールバックに、ジェルで整えた髪型で、体格は鉄壁と思える頑丈な背丈の男が厨房に立っている。
「人食い狼?」
「お隣さんの国じゃ当たり前な話だが、こっちからすりゃ未知の存在。二足歩行でうろつき、人の味を覚えた狼モドキだ。森林地帯が主な生息場所だが、ここは森が少ない、だがエサはある」
「ふーん」
素っ気ない返事をする。
「ここ数日で、五人喰われた」
「マジで?」
「マジだ。ただでさえ強盗だってうろついてんのに、勘弁してほしいもんだ。お前狩猟の経験は?」
「強盗退治以外ないよ、アタシ食い殺されたどうすんの」
「そん時は腹を裂いて引っ張り出してやるよ」
笑えない冗談に眉と目尻をぴくりと動かす。
「アタシは狩人じゃないっての……」
愚痴をこぼし、グラスの水を口に含んだ。
ふと、窓の外に青い瞳と汚い毛並みが見えて、喉が暴れる。
口から暴発、唾液を含めた水が霧状になってガラスにぶちまける。
「おいっなに、ばか、窓を汚すな!」
「げほっげぉっ! ちが、マスター、だって、今なんかいたんだって」
「どこにだよ」
火を止め、大きな歩幅で近寄りテーブル席の窓を見た。
外は観葉植物がそっと置かれた静かな通り、誰もいない。
「誰もいないぞ、幻覚でも見たか?」
「本当にいたの!」
「そうかそうか、さっさと窓拭け。拭き終わったら水洗いして干しといてくれ」
雑巾を放り投げられ、信じてもらえないことに文句を募らせ、渋々窓を拭く。
改めて窓の外を覗くが、誰もいない。
傾げつつ、丁寧さの欠けた動きで拭き取っていく。
飛沫が取れたガラスを見て、よし、と納得したあと、裏口から外に出て洗面台で水洗い。
鼻につく臭いに手を止めた。
「なにこの何日間も洗ってないような臭い。もしかして……」
自動拳銃を抜き、遊底を引いて装填、安全装置を外す。
『やぁ、美しいお嬢さん』
声が足元から聞こえ、素早く下に銃を向ける。
銃口の先に、四足歩行の狼がいた。
体長一四〇センチほど、足元が白く胴体にいくにつれ茶色の体毛、ふさふさの尻尾を横に振り、青い瞳が良く目立つ。
毛並みは泥と埃と油で汚れ、胴体に軍用のサイドバッグを装着している。
「さっき窓に張り付いてた獣!! 人食い狼?! しゃべっ!」
『ボクは人食い狼じゃないよ、みんなとお話ができるとっても知能が高い狼なんだ』
明るく、どこか幼さが残る声色。
自画自賛を含めた自己紹介に、疑いの眼差しと警戒を怠らない。
「なんで言葉が通じるわけ? 名前は、どこから来たの?」
『よくぞ聞いてくれたね、ボクはヘンリエッタ。お隣の国からやってきたんだ。あとは、共通言語だから話ができてるってだけさ、それ以上の理由はないかな』
「はぁ、ヘンリーじゃなくて?」
『うん、ヘンリエッタ』
赤ずきんは思わず屈んで、ヘンリエッタと名乗る狼の股を覗こうとした。
『ちょっとちょっと覗かないで、恥ずかしいなぁもう』
「オス……だね」
『うん』
純粋と達観を交えた青い瞳と一〇秒以上見つめ合った後、銃を下ろす。
「とりあえず分かった。で?」
『ありがとう美しいお嬢さん。ところで君も……赤ずきん?』
「皆が勝手にそう呼んでるだけ、も、って何よ」
『ううん、こっちの話。隣国は今軍事政権に反対する暴動が起きていてね、こっちに逃げてきたばかりなんだ。暴動が終わるまでの間だけ、この町にいたいな』
あまりにもみすぼらしい、臭いも酷いヘンリエッタに、黙り込んだ。
「お客さんが来たぞ!!」
店内からの呼び出しに、肩をすくめた。
九ミリ口径を握りしめて店内に戻る。
足音を立てず、ゆっくり裏口からホールへと近づいていく赤ずきん。
「客じゃない、暴動に巻き込まれて金を奪われたんだ。少し恵んでくれ、食べ物でもいい」
埃と血痕がついたシャツでやってきた男は、険しい表情を浮かべている。
身なりを頭から足先まで観察し、マスターは小さく何度か頷く。
「うちは慈善団体じゃない、俺はぁただのしがないマスターだ。難民申請は役場でやってくれ」
「役場なんて相手にしてくれねぇ! いいからくれよ!!」
「断る。営業の邪魔だから出ていけ」
相手が誰であろうと動じない姿勢で、耳栓を装着。
温めたフライパンに油を注ぎ、溶かした卵を回し入れる。
焼ける音を立て、ふんわりと黄金が揺れた。
「このっ舐めやがって、金出せ!!」
ズボンの隙間からダブルアクションリボルバーを抜いた男。
調理中のマスターを狙うが、激しく叩きつけるような破裂音が横から割り込んできた。
「がぁあああ、な、んだよっ!」
衝撃に痺れる手を押さえ、床に転がり滑っていくリボルバーを目で追う。拾う前に、先に大きな口が銜える。
「んだこいつ! 野良犬? こらっそれは俺のっ――」
蟀谷に熱く硬い物が当たる。
「お客様じゃないなら帰ってくれます? ここ、飲食店なんですよねぇ」
「あ……お」
ゆっくり両手を肩より上に伸ばして、声を震わした男。
「アンタが本当の難民なら、申請なんてすぐ通る。強盗目的なら、牢獄行き」
「わ、分かった! 大人しくするから……頼む、撃たないでくれ」
委縮した男をジッと観察し、小さく頷く。
銃口を向けたまま、一歩、二歩と距離を取る。
「よしよし、じゃあこのまま詰所まで――」
手首に熱い痛みが走った。
グリップに絡んでいた指先がほどけ、九ミリ口径は窓ガラスに当たって落下。
『んーっ』
背筋を伸ばして、顔を上げた。
「ざけんじゃねぇくそ野郎!!」
払いのけた隙に男は逃げだしてしまう。
「いったぁぁー……待てこの!」
涙目になりながら銃を拾い上げ、追いかける。
人通りの少ない小道に出た途端、
「ひがぁああああああ!!」
男の絶叫が聞こえてきた。
「なっ……」
前のめりに倒れた男の上に、大きな口から太い牙を剥き出しにして覆いかぶさる、ヒトではない獣。
「な、なに、あれ――」
九ミリ口径を構える。
首筋に牙を突き刺され、男の絶叫は呻き声へと変わっていく。
ヘンリエッタはリボルバーを赤ずきんの足元に置いた。
『人食い狼、一応ヴォルフって名前がついてるんだよ。残念ながら対話は無理だから早く仕留めた方がいいんじゃないかな』
引き金に人差し指を宛がうも、動作しない。
「ウソっ」
『これならまだ動くと思うよ』
涎がついたリボルバーに抵抗を覚えた赤ずきんだが、首を軽く振って拾い上げた。
一発、叩きつける破裂音が響く。
人食い狼の左耳に当たり、弾丸ごと千切る。
甲高い鳴き声を上げ、鋭い獣の瞳孔が次の獲物を捉えた。
二足歩行で地面を蹴り走って、瞬く間に迫ってくる。
「は」
狙いをつけられず、手は震えて、全身が硬直してしまう。
血まみれの口腔内が視界いっぱいに、終わりが近づいた。
鈍く突き刺す音。
人食い狼は横に反り倒れた。
『ぐぐぐうぐぐうるるぅぅ』
青い瞳で強く相手を睨み、鋭く太い牙を首に沈めていく。
「う、そぉ……」
リボルバーを落とし、その場にへたり込んだ。
何度も何度も牙を深く突き刺す。
痙攣すら起こさなくなったあと、ゆっくり、血を滴らせながら、牙を抜く。
『んぅ、不味い。君は、赤ずきんだけど、赤ずきんじゃないね』
「は、は? な、なんなの……こんなのが、流れてきてる、わけ?」
『そうだね』
「…………」
『ねぇー大丈夫? お嬢さん』
「う、ん、だいじょう、ぶ、たぶん」
力が抜けた声で答える。
騒ぎに気付き始めた住民たちが、ぞろぞろと、途中まで喰われた男と人食い狼の死骸を見て、静かに恐怖と不安について言い合い、騒ぐ。
『そうは見えないけど。ね、ね、ボク、役に立つでしょ、この町にいてもいい?』
「わ…………分かった」
ようやく耳栓を外したマスターは、店に戻ってきた赤ずきんと足元にいるヘンリエッタを訝し気に睨んだ。
「おう、赤ずきん。なんだって不衛生な奴がいるんだ?」
「隣の国からの避難民、詳細は省くけどこれからとぉっーても役に立つお利巧さんだから、とりあえずお風呂に入れてもいい?」
嗅覚を麻痺させかねない臭いに、マスターは重く頷いた――。
end。