ホーリーは姫君な割にそれほど高飛車なところがない。もっと偉そうにしてくれればこちらも遠慮なく反抗できるのに、平民並みの気遣いも持ち合わせているからタチが悪いのだ。そのくせ平民並みの常識に欠けるところもあり、攫ってきたあたしの監視役をしたかと思えば今度は無邪気に姉さまと呼んで兄王と結びつけようとする。あたしがどんな犬なのか、どんな犬生を歩んできて、どこへ行こうとしているのか知ろうともしないで。
そして目下、あたしが気分を害したとみて、妹らしく健気に機嫌を取ろうとする。
「姉さま、カフェに行きましょう。城下の南西側にケーキの美味しいお店があるの」
「結構よ」
「そんなことおっしゃらないで。わたしの好きなお店、姉さまにも好きになっていただきたいの」
「その姉さまっていうのやめて。しおらしい口調も。おままごとにつき合いたい気分じゃないの」
頭をすりつけてくる彼女を振り払い、距離をとって冷たく言うと、ホーリーは三角耳としっぽをしゅんとさせて、それ以上近づいてはこなかった。
「わかったわよ。でもカフェには行きたいの、お願い」
こういうところだ。姫君ならばウルンデを使って有無を言わさずあたしを連れていけばいい。けれどそうはせず、あくまであたしに選択させる。まるであたしの意思を尊重しているかのように。決定権はあたしにあるとでもいうように。あたしを攫ってきたことを、すっかり忘れてしまったように。
卑怯だと思う。なのに、琥珀色の目で上目遣いに懇願されて、断ればこちらが悪だという気になってくる。
「……いいわ、行くわよ」
「やったぁ! さすが姉さま」
「だからそれやめて」
「本当に駄目?」
いつの間にかホーリーはまたすいぶんあたしに近づいている。
「わたしね、ずっと姉さまがほしかったの。母さまは、幼いころに亡くなった母さましかいないし、他なんて考えられないけど、姉さまならいつかわたしにもできるって。この国の犬たちは姫であるわたしに気を使う。でもアイリはそうじゃない。アイリはわたしを姫じゃなく、一人の妹として見てくれる。そうでしょう?」
彼女はずいぶん利己的なことを言っていると思う。だがそう思うのに、条件反射的に一蹴することができない。それは彼女の言葉から透けて見える彼女の背景のせいだろうか。あるいは抗いがたい王族の力がこの国の民でないあたしにも作用しているのだろうか。
あたしは彼女を傷つけすぎない言葉を敢えて選んだ。
「変な期待をしないで」
「ええ」
「あなたには兄がいるじゃない。彼はあなたに遠慮なんてしないでしょ?」
「そうね」
「血も繋がっていない別種のあたしを姉にする必要なんてないわ」
ホーリーはそろそろと遠慮がちに頭を動かし、あたしにちょんと額をぶつけた。
「必要なくても姉さまがほしいの。ずっと兄さまだけだったから」
「ホーリー、あなた」
あたしの言葉を遮って彼女は言う。
「それに血が繋がってなくたって、別種だって、キョウダイにはなれるわ。そうでしょう?」
なれない、とあたしは返せなかった。それはアキラの顔が浮かんだからだった。
あたしが返事をしないのを肯定と受け取ったのか、ホーリーは気をよくした様子で歩き出した。
「姉さま行こう、ケーキ売り切れちゃう」
あたしは彼女があたしを姉さまと呼ぶのをもう一度咎めることができなかった。
この国では、王族がふらっと店に立ち寄ることもそれほど珍しくないのだろう。ブティックの店主もそうだったが、カフェのマスターは特に慌てる様子もなくホーリーとあたしを暖炉近くの温かい席へ案内した。マスターはウルンデたち三人にも別の席を勧めたが、彼らは任務中だからと言って丁寧に固辞し、入り口近くの壁際で石像となった。
ふわふわのローソファに向かい合って座ったあたしたちは、エプロンを首から下げた壮年のマスターに勧められるまま、本日のおすすめケーキセットを注文した。マスターがカウンターの奥に行ってしまうと、ホーリーはローテーブルの上に置かれた茶色のザラメを紙ナプキンに少しだけ取り、いたずらっ子の顔をしてぺろりと舐めた。
「これが好きなの。兄さまもね」
あたしは涼しい顔をしたグラーフラートが紙ナプキンの上のザラメをこっそり舐める姿を想像して少し笑った。たったそれだけで、ホーリーは嬉しそうにする。
「ねえ姉さま、共生派の国ってどんななの?」
「どんなって……」
漠然とした問いに答えあぐねていると、ホーリーは追撃を加えてくる。
「ヒトと暮らすのって楽しい?」
「そうね……物心ついたときにはもうヒトがそばにいたから、楽しいかどうかで考えたことはないわ」
「そばにいたヒトって、友だち?」
「家族よ。あたしはヒトの家で養子として育ったの。同い年のキョウダイもいる」
「へぇ……ヒトと犬は家族になれるんだ?」
「ええ。あたしはヒトの戸籍に入っているから、戸籍上ではヒトだしね。ヒトの法で守られる代わりに、悪さをすればヒトの法で裁かれる」
「じゃあ、姉さまは私たちと違って犬権保護法の適用外なの?」
「そうなるわ」
「犬なのに?」
どこまでも純粋で無邪気で悪意のない質問だった。それだけに困ってしまう。
犬なのにヒトとみなされる。どうして? という疑問は、あたしが幼いころから抱いていたものだ。
どうして? の答えのひとつは両親が持っていた。あたしを臓器提供の可能な”ヒト”にするため。アキラの臓器のスペアにするため。
忘れもしない、九歳のとき。保健の授業で臓器移植のことを学んだ。クラスにはヒトの子も、ヒトとなった犬の子も、ヒトではない犬の子もいた。先生はヒトとなった犬だった。
先生は十代のころ、体の弱かったヒトのキョウダイに肝臓を少しあげたのだと言った。そしてこう続けた。
『犬の寿命は約五十年。けれど私の肝臓の一部は、私のキョウダイと共に百年生きる。ただただ嬉しいと感じた。キョウダイを救えることが誇らしかった』
あたしは先生の言葉に感動した。アキラは……居眠りしていたけど。
あたしは先生が絶賛する臓器移植のことをもっと知りたくなって、ライフナビで検索した。そしたら何億件も出てきた―――スペアについて。
『増加する犬の養子。スペアとは』
『肺、肝臓、腎臓、小腸。衝撃の四部位移植を生き延びた犬の少女が叫ぶ。私はスペアなの?』
『養子縁組の二週間後に行われた移植手術により犬の養子が死亡。両親はいわゆるスペアとして―――』
『僕はスペアじゃない、そう言い残して息子が消えた』
『人権保護法と犬権保護法。ヒトと犬との境界とは。相次ぐスペア問題』
あたしは、違うよと言ってほしくて両親に聞いたのだ。『あたしはアキラの臓器のスペアなの?』と。そうしたら両親は泣いた。九歳のあたしの鼻先で、熱されたアイスケーキみたいにどろどろに崩れ落ちて溶けて、泣いて、泣いて、泣いて―――結局、違うよと言ってはくれなかった。
「お待たせいたしました、本日のおすすめケーキセットでございます」
宝石のようなフルーツがたっぷり乗った白いケーキと、紅茶の器があたしとホーリーの前に置かれる。
「美味しそうね、姉さま」
「……うん」
「この黄色のぶどう、国外には輸出してないやつよ」
ホーリーはケーキに気をとられて、先の質問を忘れたようだった。
「へぇ、これぶどうなんだ?」
だからあたしも忘れることにした。