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第3話

「どうしたの。遠慮なく選んでいいよ」

 教授の言葉にはっとして、ふみこちゃんの面影は消し飛んだ。私は気後れしたような素振りでメニューを眺め、か細い声を出す。

「先生と同じでもよろしいですか。私、よくわからなくて」

 教授は何がおかしいのか高笑いをして、

「そうだね、当然だよ」

と頷いた。

 本当はわからないわけではない。私がつき合った男たちは小金を持ち、かつ女性に奢ることに特別の満足を感じるような類の連中だった。高校の頃から、私は彼らを通じて、それまでの私には無縁であった世界のことを知っていった。そういうことを知ることは彼らが私に使うお金以上に、私にとっては重要であったから。

 私は修道院で用意されていたもの以外に、特別の口座をつくり、お金をコツコツとため続けていた。けれど、お金だけでは気づけないことがある。できるだけ私は、彼らにつき合い、彼らのアクセサリーになり、時には欲望のはけ口にもなった。

 それは修道院ではけっして学ぶことのできないものだったから。

「さて、ゆっくりくつろいで。緊張を解いて。それからでいいよ、君の悩みを聞かせてもらうのは」

 満足げな教授の表情。私は花のような笑顔をつくる。

「何だか、もうお腹がいっぱいになってしまいました」

 教授の眼差しに卑しいものが走ったのを、私は見逃さなかった。視線が落ちている。私の身体を探っている眼だ。

「君は箸の使い方が上手だね」

 これはわざとではなく、本当に感心したように彼がつぶやいた。

「死んだ母はこういうことに厳しくて」

「最近の学生さんには珍しいね。お母さまはよく出来た方と分かる」

 瞬間。私の頭に怒りが湧く。誰が、あなたなどに私の母の品定めを求めたというの?

 そして我に返る。私は母のことを知りはしない。存在したことはもちろん間違いはないが、写真さえ手元にはないのだ。父も同様。自分の性質を鑑みるに、一体どちらに似ているのかとときどき考えることがある。どちらでもいいことだけれど、そういう空想がちょっとした慰みになることもあるのだ。特に誰かを手にかけた後は。

 私の血がきっとこうさせているのだ、私の血は、なぜにこんなにも粘つくような執念を帯びているのか。もしかしたら、すでにこの世から消え去ったと思われる、父と母の何らかの恨みが練り込まれているのか。

「どうしたの、遠慮なく食べて」

 気取った教授の言葉にまた我に返る。

 私は自分からは意識的に話さなかった。こういうタイプの男は、実は自慢したいことが体内につまっており、チャンスさえ見つければ弾むようにその話が飛び出してくるのだろう。その聞き役、おだて役にまわるのがいいやり方に思えた。

 高級な味。

 美味しいと思うよりも高級な味としか感じない私。

 舌鼓を打ちながら、いかにも感心したというように少しずつ箸で口に運ぶ。私にとっては高級な味。そういう感じ方しかできない自分を憐れとは思わない。むしろ、食事のうまさなど感じない方がいい。それは他のことも同じ。

 今はブランド物のワンピースを着ているし、アクセサリーも。

 子供の頃の「お下がり」は完全に克服した。

 いかに生きるか。

 この問題を、このような俗っぽい男が語るのが許せなかっただけ。

 それだけで、私には十分すぎる理由があった。

 機会は料理か酒か茶か。

 そっとバッグの中の小さなスポイト状の容れ物を確かめる。

 酒のときがやはり怪しまれないだろう。たくさん飲ませて、中座した隙を狙うのはいちばん安全。

 もう少しつき合おうか。

「少し飲んでもかまいませんか」

「ああ、もちろん。君は成人しているんだろう? 何がいい」

「実は、日本酒が好きなんです」

 教授は「ほう」と声に出し、

「いける口だね。……そうそう、悩み事は真剣に話し合った方がいいが、飲んだ方が滑らかに話せるかもしれないな」

 私は俯いて微笑して見せる。

 教授はすぐに自分のお酒を注文したが、私は食後がよいと伝えた。この男は飲んだのがすぐに顔に出るらしく、早くも赤らんだ。

 酔った男のぎらついた目つきが私は大嫌いだ。そこまで行かせたくない。

 やがて膳も下げられ、私はナプキンをとって軽く口元をぬぐう。

 一息ついて、顔を上げて見せる。

 目線は下に。私の長いまつ毛が、ゆらゆらとしたほの暗い灯りの下でも、頬に影をつくっているのに違いない。

「先生、私、実は……」

 私は決意を固めたような表情をつくって話しはじめた。

 落ち着いた小部屋。趣味のよい調度。

 この男には似つかわしくない、いえ、ちょうどいいのか。

 そして私にも。

「そうか。君の身の上は、私には想像を絶するよ」

 あくまで教授としての、先生としての体面を取り繕ういやらしさ。

「こんなこと、話したのは先生が初めてです。どうしても言えなくて。でも、先生の講義をお聞きしながら、どうしてもこみ上げてきてしまって」

「そうか」

 感じ入ったというように目を潤ませて見せる男。

 私は、その目をまっすぐに見て、すっと涙を落して見せた。

「君」

 慌てて私を見る男の顔が、本当にぼやけて見える。

 涙は、都合が良い。

「あの、ちょっとお手洗いに。ふふ、お化粧を直したくて」

 そう言ってバッグの持ち手を取り、席を立った。上品にしつらえられたふすまを開けて外に出て、誰もいないのを目で確認してから、そっと微笑む。ここまでは、完璧だった。

 化粧室に行って、清潔に掃除の行き届いた手洗い場の前に立つ。お化粧崩れはしていない。完璧だ。紅だけをより濃い目に差しておこう。

 ブランド物のポーチを開き、沈んだ色の紅を取りだして小指の先でそっと唇に刷く。するとやや青みのかった顔色に実によく映えた。垂らした髪を整える。

 私は高級ブランドのお化粧品をポーチにも自宅にも揃えてはいるが、お化粧に費やす時間は極めて短い。用意は素早くする必要がある。

 そっとポーチの中から薬袋を取り出し、そでの下に入れた。器用な技を身につけたものだと思う。

 手だけ洗って化粧室を出たところでアクシデントがあった。

 目の前で、この店の制服の着物を着た背の低い女性が私に目を留めた。

 どこかで見覚えがある。

 芙美子。

 そう、あの、私を生徒たちの仲間に入れたがっていたふみこだ。

 今明るい生活をしているのではないことは、すぐに見てとれた。高級なお店なのでよい生地を使っているものの、彼女に薄いオレンジ色は似合わない。容姿がとりわけ良くないわけでもないが、この着物を着こなすには無理がある。

 私は彼女が芙美子であることを無視してそのまま教授の待つ個室に戻ろうとした。しかし彼女は声を出してしまったのだ。

「湯原さん?」

 私は心の中で舌打ちをしたい気分だった。


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