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第28話

 汗を拭って負けんに付いた血を拭き取る。


 随分と体がスムーズに動くようになった。


 死の森の中での生活は僕の感覚を取り戻すのに合っていた。


 魔物の血が染み込んだ土の上で、白い息を吐きながら、ずっとリュシアの言葉が頭から離れない。


『ご主人様が彼女を遠ざけてたら、未来で何が起こったのかなんて、一生分からないんじゃない?』


 確かにその通りだ。


 復讐をしたいと思っているわけじゃない。


 彼女に感じた恋心は確かに失われている。


 だが、アリシアを拒絶していては、彼女が未来で僕を裏切った真相に辿りつくことはできない。


 彼女は本当に未来で魔族に与したのか? それとも彼女自身の意思で僕を貶めたのか。それとも、もっと別の要因があったのか?


 今のアリシアは幼く、純粋な令嬢としてここに来ている。


 だが、それが真実なのかも僕にはわらかない。

 それを確かめるためには、向き合うしかない。


 それが、僕がこの時代に戻ってきた理由でもあるのだから。


「……くだらない」


 呟きながらも、屋敷へと足を向けた。


 そこには、答えを知るための行動をするために。


 中庭に向かうと、アリシアが一人で佇んでいた。


 彼女は夜風に揺れる琥珀色の髪をなびかせながら、何かを思案するような表情をしている。


 僕の気配に気づくと、ぱっと顔を上げた。


「ヴィクター様……!」


 嬉しそうな微笑み。僕はそんな彼女を無言で見つめた。


 不思議だ。彼女が笑いかけてくれるだけで、胸が締め付けられるほどの痛みを感じたのに、今は何も思わない。


「話がある」

「はい!」


 弾むような声で応じるアリシア。その瞳には、信頼と期待が滲んでいる。


 どうしてそんなにも僕を信用した目ができるのだろう? 彼女と僕の接点は今までなかったはずなのに、彼女はどうして僕を信頼できる?


「君が未来でどうなるのかはわからないが、僕は君と向き合うことにした。逃げていても答えはできない」


 その言葉に、アリシアの目が大きく見開かれた。


 喜びと驚きが交錯した表情。


「よろしいのですか?」

「ああ、今からでも大丈夫だろうか?」

「もちろんです!」


 満面の笑みを浮かべる。一つ一つの動作が人々に好感を持たれ、愛される存在になるアリシア。


「僕が知りたいことがある。そのために君を観察する」


 僕の言葉に、彼女は嬉しそうに微笑む。


 夜の約束、二人しかいないと思っていたところに邪魔が入る。


「ヴィクター様」


 穏やかでありながら、二人の話を遮るような意思を感じる。


 聖女家、カテリナ公爵家の令嬢:フレミア・カテリナ。


 月光を纏うような淡い金髪が風に揺れる。

 近づきながら、碧く澄んだ瞳は、僕をじっと見つめていた。


 彼女は静かに歩み寄ると、微笑みを崩さずに言った。


「少しよろしいでしょうか?」

「なんだ?」

「私はあなたに興味があります」


 その言葉に、アリシアが驚いたようにフレミアを見つめる。


 アリシアは伯爵家で、しかも聖女であるフレミアの分家に当たる。

 そのため、立場的にもフレミア・カテリナ侯爵令嬢の方が、立場が上だ。


「……フレミア様?」


 アリシアが名前を呼ぶが、フレミアは僕から視線を逸らさず、言葉を発した。


「あなたの心には、深い闇がある」


 彼女の言葉に、僕は目を細める。


「その闇が、どうしてそんなにも悲しいのか……私は知りたいのです」


 悲しい? 僕は一瞬、その言葉の意味を考えた。


 だが、すぐに理解する。


 自分でもあれが悲しいことなのかわからない。


 未来で受けた裏切り、毒殺、処刑。


 それらを経験した僕にとって、それが悲しみかどうかなど、考えたこともない。


「僕のことを知って、何になる?」


 淡々と問いかける。フレミアは微笑みを崩さず、静かに首を横に振った。


「知ることに意味があるのではなく、あなたという人が何を感じ、何を考えているのかを理解したいのです。あなたを知りたいのです」

「……」

「私は聖女の家系に生まれました。人の心を知るための訓練をしてきました」


 彼女の言葉には、迷いがない。


 未来で会っているのかもしれないが、覚えていない人物。


「あなたの闇は深く知りたいのです。私からは、触れることすら許されないもののようにも感じます。ですが、深いからこそ私は知りたい」


 彼女の言葉は、的を射ていた。


 誰にも触れさせない。

 誰も信じない。

 誰も……必要としない。


「だからこそ、あなたに近づきたいのです」


 フレミアは僕の手を握って顔を近づける。


 美少女の顔が一気に近づいてきた。


「フレミア様、お待ちください!」


 焦りが滲む声。アリシアが僕とフレミアに割って入ってきた。


「ヴィクター様は、そんなふうに誰かに近づかれることを望んでいません!」


 フレミアは静かにアリシアを見つめる。


「それは、あなたが決めることですか?」

「えっ……?」


 アリシアは言葉を失った。


 フレミアは、彼女を試すように静かに言葉を紡ぐ。


「ヴィクター様が何を望むのかは、彼自身が決めることです。それを、誰かが勝手に決めつけてはいけません」

「そ、それは……」


 アリシアは戸惑いながら、僕の方を見つめる。


 その瞳には、不安が見えた。


 彼女は、これまで「救いたい」と思い続けていた。


 しかし、フレミアの言葉によって、その立場を揺るがされたのだろう。


「……」


 二人の女性が、僕を見つめている。


 アリシアは、過去の僕を救おうとしている。

 フレミアは、僕の闇そのものに興味を持っている。


 感情を処理することに、何の意味があるのか。


 だが、僕にとっては、どちらも不要なことだ。


「……」


 どちらの言葉も、僕には響かない。


 僕は、僕の道を進むだけだ。


 アリシアの未来を見極めるために、向き合うと決めた。


「……勝手にすればいい。アリシアと向き合うと決めた。フレミア、お前が行動するなら、それを止めることはしない」


 それだけ言い残し、僕は二人の視線を背に、静かにその場を後にした。

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