汗を拭って負けんに付いた血を拭き取る。
随分と体がスムーズに動くようになった。
死の森の中での生活は僕の感覚を取り戻すのに合っていた。
魔物の血が染み込んだ土の上で、白い息を吐きながら、ずっとリュシアの言葉が頭から離れない。
『ご主人様が彼女を遠ざけてたら、未来で何が起こったのかなんて、一生分からないんじゃない?』
確かにその通りだ。
復讐をしたいと思っているわけじゃない。
彼女に感じた恋心は確かに失われている。
だが、アリシアを拒絶していては、彼女が未来で僕を裏切った真相に辿りつくことはできない。
彼女は本当に未来で魔族に与したのか? それとも彼女自身の意思で僕を貶めたのか。それとも、もっと別の要因があったのか?
今のアリシアは幼く、純粋な令嬢としてここに来ている。
だが、それが真実なのかも僕にはわらかない。
それを確かめるためには、向き合うしかない。
それが、僕がこの時代に戻ってきた理由でもあるのだから。
「……くだらない」
呟きながらも、屋敷へと足を向けた。
そこには、答えを知るための行動をするために。
中庭に向かうと、アリシアが一人で佇んでいた。
彼女は夜風に揺れる琥珀色の髪をなびかせながら、何かを思案するような表情をしている。
僕の気配に気づくと、ぱっと顔を上げた。
「ヴィクター様……!」
嬉しそうな微笑み。僕はそんな彼女を無言で見つめた。
不思議だ。彼女が笑いかけてくれるだけで、胸が締め付けられるほどの痛みを感じたのに、今は何も思わない。
「話がある」
「はい!」
弾むような声で応じるアリシア。その瞳には、信頼と期待が滲んでいる。
どうしてそんなにも僕を信用した目ができるのだろう? 彼女と僕の接点は今までなかったはずなのに、彼女はどうして僕を信頼できる?
「君が未来でどうなるのかはわからないが、僕は君と向き合うことにした。逃げていても答えはできない」
その言葉に、アリシアの目が大きく見開かれた。
喜びと驚きが交錯した表情。
「よろしいのですか?」
「ああ、今からでも大丈夫だろうか?」
「もちろんです!」
満面の笑みを浮かべる。一つ一つの動作が人々に好感を持たれ、愛される存在になるアリシア。
「僕が知りたいことがある。そのために君を観察する」
僕の言葉に、彼女は嬉しそうに微笑む。
夜の約束、二人しかいないと思っていたところに邪魔が入る。
「ヴィクター様」
穏やかでありながら、二人の話を遮るような意思を感じる。
聖女家、カテリナ公爵家の令嬢:フレミア・カテリナ。
月光を纏うような淡い金髪が風に揺れる。
近づきながら、碧く澄んだ瞳は、僕をじっと見つめていた。
彼女は静かに歩み寄ると、微笑みを崩さずに言った。
「少しよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「私はあなたに興味があります」
その言葉に、アリシアが驚いたようにフレミアを見つめる。
アリシアは伯爵家で、しかも聖女であるフレミアの分家に当たる。
そのため、立場的にもフレミア・カテリナ侯爵令嬢の方が、立場が上だ。
「……フレミア様?」
アリシアが名前を呼ぶが、フレミアは僕から視線を逸らさず、言葉を発した。
「あなたの心には、深い闇がある」
彼女の言葉に、僕は目を細める。
「その闇が、どうしてそんなにも悲しいのか……私は知りたいのです」
悲しい? 僕は一瞬、その言葉の意味を考えた。
だが、すぐに理解する。
自分でもあれが悲しいことなのかわからない。
未来で受けた裏切り、毒殺、処刑。
それらを経験した僕にとって、それが悲しみかどうかなど、考えたこともない。
「僕のことを知って、何になる?」
淡々と問いかける。フレミアは微笑みを崩さず、静かに首を横に振った。
「知ることに意味があるのではなく、あなたという人が何を感じ、何を考えているのかを理解したいのです。あなたを知りたいのです」
「……」
「私は聖女の家系に生まれました。人の心を知るための訓練をしてきました」
彼女の言葉には、迷いがない。
未来で会っているのかもしれないが、覚えていない人物。
「あなたの闇は深く知りたいのです。私からは、触れることすら許されないもののようにも感じます。ですが、深いからこそ私は知りたい」
彼女の言葉は、的を射ていた。
誰にも触れさせない。
誰も信じない。
誰も……必要としない。
「だからこそ、あなたに近づきたいのです」
フレミアは僕の手を握って顔を近づける。
美少女の顔が一気に近づいてきた。
「フレミア様、お待ちください!」
焦りが滲む声。アリシアが僕とフレミアに割って入ってきた。
「ヴィクター様は、そんなふうに誰かに近づかれることを望んでいません!」
フレミアは静かにアリシアを見つめる。
「それは、あなたが決めることですか?」
「えっ……?」
アリシアは言葉を失った。
フレミアは、彼女を試すように静かに言葉を紡ぐ。
「ヴィクター様が何を望むのかは、彼自身が決めることです。それを、誰かが勝手に決めつけてはいけません」
「そ、それは……」
アリシアは戸惑いながら、僕の方を見つめる。
その瞳には、不安が見えた。
彼女は、これまで「救いたい」と思い続けていた。
しかし、フレミアの言葉によって、その立場を揺るがされたのだろう。
「……」
二人の女性が、僕を見つめている。
アリシアは、過去の僕を救おうとしている。
フレミアは、僕の闇そのものに興味を持っている。
感情を処理することに、何の意味があるのか。
だが、僕にとっては、どちらも不要なことだ。
「……」
どちらの言葉も、僕には響かない。
僕は、僕の道を進むだけだ。
アリシアの未来を見極めるために、向き合うと決めた。
「……勝手にすればいい。アリシアと向き合うと決めた。フレミア、お前が行動するなら、それを止めることはしない」
それだけ言い残し、僕は二人の視線を背に、静かにその場を後にした。