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第19話 声

 湯をたっぷり張ったバスに浸かり、手脚を伸ばして寛いでいたら、ため息ばかりついている自分がいた。


 一人暮らしの部屋。外出先から戻り、疲れ混じりのただいまの声に応えてくれる人はいない。寂しいとか心細いとか、孤独など、それまでは感じたことはなかった。なかったのに、今はどうだろう。誰かにいて欲しい、そばにいてくれたらと願っている自分を否定できない。


 怖かった。自分が何に立ち向かっているのか、どこへ行こうとしているのか、怪異の正体も何もわからない。怖かったが、同時に、最後まで見極めたい、真実を知りたいという強い思いもある。


 多分、知らない方がいい。正体が不明なら不明のまま放置した方がいい。怪異の正体など知ってもろくなことにならない。それは分かっていた。だから今まで取材した怪異体験は、追加調査や掘り下げることもせずに、出来るだけ体験者から聞いたままの形で文字にしてきた。わたしなりの解釈を付け加えることはある。でもそれだけだ。


 それなのに、今回に限って執着する理由は……。


 鍵を握っているのはきっとあの家だろう。そうに違いない。しかし幼い頃に行方不明になった莉音もピースの一つであると気づいてしまった。


 小さな莉音りおん。わたしの大切な妹。その莉音は真っ白な雪鬼に連れ去られてしまい、いなくなった。助けてと伸ばした小さな手をわたしが離してしまったせいで、魔物に連れて行かれてしまった。


 わたしのせいだ。

 わたしが悪い。


 その莉音が、異界と化した病院で、赤い霧の向こうからわたしを呼んだ。行方不明になったはずの妹の声が確かに聞こえた。だから。だから、何かしら関係がある、と気づいた。


 わたしが手を離さなければ、莉音は。


 何かの気配に意識が引き戻された。洗面所へ通じるドアの向こうで、何かが動いたような気がする。


 息をひそめ、半透明のドアの向こうの暗がりを見つめる。


 何か聞こえたと思ったのに、気のせいかな。


 そうっと手を伸ばし、ちょっとだけドアを開けて覗いてみる。


 異常はないようだ。


 現実問題として、一人暮らしの身にとっては怪異よりも人間の方が怖かったりする。だから日頃から施錠には気をつけているつもりだ。玄関ドアの鍵はちゃんと掛けた。ベランダへのサッシ窓も今日は開けていないから鍵は降りたままのはず。だから誰かが侵入した可能性はゼロではないが、まず考えられない。


 ……やっぱり気のせいかしら。


 バスから出て、濡れた身体にバスタオルを巻き、そうっと、音を立てないように、忍び足で部屋へ移動する。


 もしも侵入者だとしたら、わたしがバスルームにいることはとっくに気づいているに違いない。だからそんな真似をしても無駄であるとわかっている。だとしても、そうっと、そうっと、ゆっくり……。


 やはり誰もいない。お風呂へ行く前の状態と何も変わらないように見える。裸にバスタオルを巻いただけの無防備な恰好で佇んでいても、物陰から誰かが飛び出してきたりしない。


 忍び足のまま部屋の角っこに置いてあるリュックまで行き、手を中に突っ込んで大振りのサバイバルナイフを取り出す。


 鞘から抜いたナイフを胸の前に構え、念のために玄関ドアと窓の施錠を確認する。よし、オッケー。問題なし。


 詰めていた息を吐いた。硬くなっていた身体から力が抜けていった。


 もう一度、お風呂に入ろうかな。身体が冷えてしまったから温まりたい。


 洗面所へ戻ると、バスルームから、チャプっと水の音がした。


 ぴちゃ。

 ぴちゃ。

 ぴちゃ。


 誰かがバスの中で遊んでいるような音が聞こえてくる。


 ヒッと喉が鳴った。同時に、バスルームのドアが向こう側からバンと叩かれた。


 小さな影がドアを叩いている。その影は子供に見えた。おかっぱ頭の、女の子。すると頭の中で声がした。


 おねえちゃん。


「……莉音? 莉音なの?」


 助けて、おねえちゃん。


「莉音なのね?」


 助けて、助けて。


 夢中でドアを開けようとした。でもなぜか開かない。そのあいだも莉音がわたしを呼んでいる。何度も、何度も、何度も。


 助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて。


「今、助けてあげるからね」


 莉音。

 わたしのかわいい莉音。


 あの時。わたしが手を離したから。わたしが手を離さなければ。莉音は。莉音は、ああ、わたしがいけないの。ごめんね。ごめんなさい。莉音。


 あれほど開かなかったドアがいきなりガチャと開いた。かわいそうな妹を抱きしめようと伸ばした手が空を掴む。


 誰もいなかった。

 あの時のように、莉音はわたしの前から消えた。


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