2月28日昼1時、バウワー家兄弟二人はアルポート地方の北の山道を彷徨っていた。積雪を踏みしめる黒馬の蹄は深く
デンガハクは体面も名誉もなく一心に逃げることだけに必死になっており、ただ兄を守るという情念だけが彼の者をひたすらに突き動かしていた。
雪が花びらのようにひらひらと舞い落ちる中、密集した枯れ木の間を幾度も縫って道を進んでいく。
(ここは……どこだ? もはや来た道さえわからなくなってきた。せめてどこか小屋か洞窟はないのか? 兄上を……覇王を安全な場所で休ませなければ)
デンガハクは北地方の奥地の寒さに耐え忍び、歯をガチガチと鳴らしながら辺りを見渡す。だが、いくら目を凝らしても景色が変わらない。同じような枯れ木の群れが侘びしくデンガハクの瞳に映るだけだった。
やがて風はぼうぼうと吹きすさび、吹雪となってバウワー兄弟に襲いかかる。その音はけたたましく耳が千切れそうなほどに体が凍えてきた。
「なあ、ハクよ……少々昔について語らぬか……」
突然焼け石のように体が熱くなった覇王が、デンガハクの耳元で弱々しく囁く。背中に兄の体温を感じ続けるデンガハクは、驚いて兄の吐息声を耳に受ける。
兄の呼吸は雪を溶かすほどに温かく、白い霧となって冬の虚空へと散った。兄にはもはや己自身を支える力は残されておらず、その呟いた言葉が明瞭な意志を持って答えたものなのかどうかすらもわからない。
それでもなお、覇王は細く言葉を紡ぎ続ける。
「我らバウワー家兄弟は……いつもずっと一緒だったなぁ……ハク……レン……キン……皆我の大事な弟だった……子供の頃は皆我に懐いてきおって、甘えてきて、それがとても可愛く思えたものよ……」
覇王の双眸が望郷の念に駆られ、その幼き頃の光景が映し出される。デンガハクの背中の温度に包まれながら、まるで自分が生まれたばかりの赤子に戻ったような感覚を覚える。
「レンは……とても、素直ないい子だった……バカ正直で、嘘をつけず、いつも家来たちからもからかわれたりしていた……我はその度にその者どもを叱りつけてやったが、レンはいつも笑ってその者たちを許してやっていたのだ……レンほど、この大陸で心根が綺麗なものなどおらんだろう……」
覇王はデンガハクの背に頬を摺り寄せながら空を見上げる。そこにはかつてモンテニ王国との戦争で亡くしてしまったデンガレンの幻が浮かんでいた。
「戦の時も……常に我々兄たちを気遣って、最前線に出て守ってくれようとしてくれていた……あいつは自己犠牲の心が強く、自分よりも他人のことを考えるようなやつだった……あいつは我々が戦で敵の城を焼き討ちした時も、涙を流してずっと祈りを捧げていた。
……そんな優しいレンが、何故この世からいなくなってしまったのだろうな……天命とは、やはり無情なものだ……」
覇王は失われたデンガレンの尊い命を偲ぶ。そこには憎しみや怒りはなく、ただ死者を悼む
デンガハクもその兄の懐かしい追憶に応えてデンガレンに思いを馳せる。
「……ええ、レンはとても優しい男でした……平和な時代であれば、戦などせずもっと別の道を歩んでいたでしょう……俺たちバウワー家一族は、アーシュマハ大陸の本当の平和のために、天下統一の大義を掲げていたのです」
デンガハクが兄の思い出話に受け答えると、覇王はしみじみとまた昔の頃を思い出す。
「ああ……そうであるな……我らが天下泰平の夢を追ったのは、キンが切っ掛けだった。あやつもまた、誰よりも平和な世を望んでいた」
そこで覇王は四弟であるデンガキンに思いを馳せる。その恵まれない体に生まれてしまった弟に、今の自分の体の境遇を重ねてしまう。今感じている張り裂けそうな胸の痛みを、弟も感じていたのだろうか。
「キンは、とても賢いやつだった……ずっと戦に明け暮れていた我ら三人の兄たちの留守を預かり、いつも我らの故郷を守ってくれていた……キンはいつも病弱な自分自身のことを気にしており、我らと共に戦に出ることができないことに劣等感を覚えていた。
……だが、その悔しさをバネにして勉学に励み、国の内政を任せられるほど頼もしい存在になったのだ……もしあいつが健康な体に生まれておれば、一国一城の立派な名君にだってなれただろう……本当に我は惜しい弟たちを失くしてしまった……」
覇王はまたデンガハクの背中に顔を埋め、その閉じた瞼から涙を流す。鎧を着忘れていたデンガハクは、その温かな涙を一身に受ける。
「……ええ、そうですね。俺たちはボヘミティリア王国を守ることができなかった……キンもきっと恐ろしい思いをして亡くなってしまったのでしょう。
……ですが、キンは誰よりも理想を求め、誰よりも民たちのことを考えて我々の国を守り続けてくれました。その優しいキンならば、きっと永遠の安らぎを得られる天国に行けているでしょう……キンもきっと、俺たちのことを許してくれているはずです」
デンガハクはデンガキンの話になると、どうしてもボヘミティリア王国の惨状を思い出さずにはいられなかった。今死にかけの兄に対して、そんな惨たらしい記憶を思い出させるような語りは不謹慎かもしれない。
だが、兄はそんな次弟の慮りのなさを気にかけた様子もなく、瞼の裏に病弱な四弟の幻を映し出す。その閉じた双眸からはやはり涙と悔恨が止まらなかった。
「……ああ、そうだな……我はとんでもない過ちを犯してしまった……キンは子供の頃、『誰もが幸せに暮らせる平和な世の中が見たい』といつも言っていた。だからこそ我ら兄弟は天下統一への道を歩めたというのに、キンにそれを見せてやることができなかった……ハク、我は……お前が諌める言葉を、もっと聞いておくべきだった……」
覇王は今度は自分の体を委ねている目の前の次弟に語りかける。
デンガハクはその消え入りそうな弱々しい死に際の兄の声に、思わず涙腺が緩んでしまう。もはや今の自分にできることは、兄の走馬灯のような思い出話を聞くことしかなかったのである。
「ハク……お前はいつも心配性で、我のことを困らせていたな……我が敵を攻めると言えば待てといい、我が敵の兵糧を食べるといえば自分がまず毒味するといった……まるで小姑のようにうるさいやつだった。
……だが、それもお前の兄弟への愛が深かったからこそ、そう言わしめているのだということは、十分伝わった……お前は不器用で、空回りで、おせっかいすぎるところがあった……だが、それもお前が誰よりも我ら兄弟のことを思ってくれていたからこそだ……お前の我への忠義心は誰よりも深く、誰よりも我の天下統一の野望が叶うことを望んでくれていた。
……ハク、我にとってお前は、何にも代えることができない、唯一無二の弟であり腹心だ。我もお前を愛しておる……」
その兄の最期の弟への告白に、デンガハクの涙腺が決壊する。深く目を瞑り、前を見ることもできないほど視界が滲む。もはや自分が進んでいる方向さえわからない。それでも確かに兄の存在が今、自分の背中で温かな温度となって伝わってくるのが感じ取れる。
デンガハクはもうこの世界には兄と自分しかいないのだと錯覚するほどに、兄への思慕を心の全てを捧げて寄せていた。兄の命は自分の命であり、自分の命は兄の命である。それは死んでしまった弟たちも一緒であり、その4つが1つとなって繋がりあう断金の絆は、皆が生まれた時からずっと変わらないものであった。
デンガハクは弟たちを亡くして、己の半身と更に半身が失われてしまったかのような感覚に襲われていたのである。
もうこれ以上自分の大切な兄弟を失うわけにはいかない。デンガハクはその必死な願いだけを頼りに、この先の見えない雪道を進み続ける。そして、ただ一言兄に答えを返したのだった。
「……俺も、兄上を愛しています」
偽りのない敬愛をデンガハクも曝け出す。その弟の告白を聞くと、覇王は静かに弟の背中に頬ずりした。もはやデンガダイも覇王としての威厳を失い、弟の背に甘えることしかできないほど心細くなっていたのである。
吹雪の勢いはますます強まり、また兄弟たちを二人しかいない孤独へと
「ハクよ……お前に、頼みたいことがある……」
雪山の坂道が更に険しくなってきた所で、覇王は弟に再び囁いた。その言葉は聞き取れないほどに小さく、もはやそれは音量のない吐息とほとんど変わらなかった。
だが耳元で顔を埋められたデンガハクには、はっきりと兄の声が聞こえた。兄の最期の言葉を全霊を以て聞き届けようと耳を傾けた。
そして覇王は弟に願いを告げる。
「お前に……我の天下統一の覇業を、継いでほしい」
「ッ!!!」
その途端にデンガハクは馬の歩みを止めてしまう。そのあまりに衝撃的な覇王の懇願に、肩に
覇王の眼は濡れそぼって
「ハク……新しい女を作れ……そして、元気な子供を産むのだ……男でもいい、女でもいい。その子が強く生きられるなら……新しく未来皇帝への覇業の道を歩んでくれるならば、我はその子に悲願を託したい……もはやここまで壊滅してしまった覇王の軍を、短い時で再興させることは不可能だ。それには長い長い年月が必要となる……我らの世代では、もはや天下統一の大業は成し遂げられないだろう。
だから、未来のお前の子供に全てを託したい……我ら4兄弟が、かつて共に天下統一の夢を見ていたように、その子にも本当の平和な世の時代を見せてやりたい……その子自身が皇帝となり、この大陸を正しく導けるように強く逞しくあってほしい……我はもう、お前の子に未来を託すことしかできぬのだ。
……ハク……我を見捨てて、お前だけでも生きよ。我の思いの全てをお前に捧げる……バウワー家の再興を、この大陸の平定を……」
その言葉を紡ぎ終えた瞬間、覇王は
兄の命はもはや峠を越えようとしており、限界にまで達している。そのまま兄は目を閉ざし、ピクリとも動かなくなってしまった。
「兄上ッ!! 兄上ッ!!!」
デンガハクはすかさず血相を変えて兄の耳元で叫び散らす。
だがその大音量にも覇王の体はビクともしない。
デンガハクはまさかと思い、右手で兄の首筋に指を置いて脈を確かめる。すると指先からトクトクと血液が流れる音が感じ取れ、兄が生きていることが証明された。
(よかった……兄上はまだ生きている。だが、そろそろ気温も下がってきて、兄上の体ももう限界だ。早くどこか暖かくて落ち着ける場所を見つけなくては)
デンガハクは兄の無事を確かめると、凍りつきそうになっていた涙の跡を拭い、再び先の見えない雪景色の前方に目を凝らす。
(兄上、申し訳ございません。俺はあなた様を置いて逃げることなどできません。このアーシュマハ大陸を治めることができるのは、デンガダイ様、あなた様しかいないのです)
デンガハクは兄の最期の願いに逆らうことを決意し、再び黒馬に常歩の合図を送るべく両足に力を入れる。
だがその時だった。
ズサリ、ズサリ、ズサリ。雪を踏みしめて、何者かが近づいてくる気配がする。その足音は複数あり、鎧から鳴り響く金属音も混ざっている。その数は明らかに大勢いた。
デンガハクはハッとなって素早く騎馬の身を翻す。その振り向いた先には、枯れ木を縫って進む血に飢えたアルポート軍の姿があった。
「ほう、覇王が逃げたとは聞いていたが、まさかデンガハクも一緒だったとはな。通りでいつまで経ってもデンガハクが討ち取られたという報告が入ってこないわけだ。だが、その様子だともう覇王は瀕死のようだな。ならば後はデンガハクよ、そなたの首を取ればこの戦争も終わりだ」
軍の最前線には、アルポート王国大将軍、ソキン・プロテシオンが立っていた。両手を腰に回して余裕の表情を見せて笑っている。
もはやボロボロになったバウワー兄弟にとって、その柔和な顔をした老将の登場は、今考えられうる最悪の事態だった。
デンガハクはそのハイエナの群れのようなアルポート兵たちに冷たい汗を流す。だが遂には覚悟を決めて両手剣を抜いた。
「兄上ッ!! このままお逃げくださいッ!!」
デンガハクは黒馬から飛び降りると、馬の尻を叩いてそのまま走らせる。
意識を失った覇王は揺られるままに揺られて疾走した。
「お前たちは覇王の後を追えッ!! デンガハクの相手は私がする!」
歩兵たちはデンガハクを迂回して一斉に覇王の後を追った。その枯れ木の雪原に残ったのは、ソキンとデンガハクだけであった。
「……さて、これで決闘の準備は整ったな。デンガハクよ、そなたの首は私がもらう。そなたの首であれば、このソキンの最後の戦を飾るに十分ふさわしい武名を得られるだろう」
そう宣告すると、ソキンは刀身を鞘にゆっくりと擦らせながら銀の剣を抜く。そのまま片手剣を一振り虚空で振り払った後、まっすぐにデンガハクに対峙して名乗りを上げた。
「私はソキン・プロテシオン。アルポート王国の大将軍にして、偉大なる王家レグラス家と名を連ねるプロテシオン家の長だ。ユーグリッド・レグラス様の覇王軍殲滅のご勅命に従い、そなたの
そしてソキンはデンガハクに腰を落として剣を構える。殺意の威圧を細い目に滾らせ、デンガハクの最期の敵として立ちはだかろうとする。
デンガハクもそれに合わせてゆっくりと体を正面に向け、両手剣の柄を握り締める。
ぼうぼうと吹きすさぶ吹雪の中、2つの刃の切っ先が互いの喉元へと向かって突きつけられた。
こうして、2月28日16時、ソキンとデンガハクの一騎打ちが静かに幕を開けた。