炭を敷いたバーベキューコンロに網を敷く。
ここまでは普段の焼肉とあまり変わらない。
次にホームセンターで買ってきたレンガをコの字型に並べ、その上にもう一枚網を乗せる。
上に乗せた網の上から、さらに厚手のアルミホイルを敷き、その上に熱した炭を並べる。
色々試行錯誤した結果、本日のお手製簡易ピザ窯はこの形に落ち着いた。
上下の炭から発せられる熱によって、ピザがこんがり焼き上がるはずである。
僕がピザ窯のセッティングを終えた頃、
ピザソースとチーズのシンプルなピザ。
カットしたカマンベールを並べた贅沢なピザ。
焼き鳥缶詰とマヨネーズを乗せ大葉を散らした変わり種のピザ。
その内の1枚をピザ窯に入れ、まずはピザ生地とチーズが焼ける香りを楽しむ。
これだけで美味い酒が飲めそうだが、まだ我慢。
ピザは数分で焼き上がった。
中々の火力である。
持参したピザカッターで8枚にきりわけ、次のピザを窯に投入し、缶ビールのプルタブを開けた。
「かんぱーい!」
ビールを一口流し込む。一口で止めるはずが、止まらない。喉が苦味と炭酸を要求し、気がつけば缶の中身は半分ほどまで消えていた。
ピザを一切れ口に含み、噛みちぎる。
とろけたチーズの濃厚な風味と、パリパリのピザ生地。この洗練された味は、洒落たイタリアンレストランのちょび髭オーナーシェフが作る、シェフの気まぐれ名物ピザの味にさえ匹敵するであろう。
「なかなかだな」と僕が言う。
「うん、なかなか」と穂乃果。
「うん」
「うん」
僕は今、このピザの感想を口に出すよりも、ピザを味わい飲み込むことにこの口を使いたい。
なぜ人間には口が1つしかないのだろうか。
僕は初めて、人間の構造的な欠陥を発見し、その不完全さに落胆したのだった。
日は傾いているが、完全な夜にはあと一歩及ばない。
早めに灯したガスランタンの灯りが、雲の切れ間から射しこむ弱々しい夕日に溶ける。
この中途半端な時間は、あとほんの数分で夜に傾き、瞬く間に夜の帳が降りてくるだろう。
僕達は、まだ少しだけ輪郭がうかがえる遠くの山のシルエットを、背もたれにもたれかかった状態でぼんやりと見ていた。
『仕事していれば、失敗することもあるさ』穂乃果にかけようとしている、慰めの言葉を心の中で反芻する『辛いことがあったら、僕に相談してくれよ』
こんな月並みな言葉をかけたところで、穂乃果の気が休まるかは分からない。
でも、何も言わないで見過ごせるほど、僕は隣に座る幼馴染に対して無関心ではない。
夜へ向かって、山並みを駆け降りていく夕日。
徐々に視界は縮小し、気付けばランタンの灯りのみが、半径数メートルの小さな世界を照らしていた。
ホタルだー!
小川の方から、子供の声が聞こえた。
僕と穂乃果は顔を見合わせる。
「行ってみようか?」
「そうしよう」
椅子から立ち上がると、声のする方へと向かう。
ホタルを見るのはいつ以来だろうか。
田舎町で育った僕にとって、ホタルは田んぼの側の用水路周りを飛び交っている、そんなごくありふれた虫だったような気がする。あのホタルはいつからいなくなったのだろう。
ホタルが消えたのが先か、僕がホタルに興味をなくしたのが先か。
こうして再び自然の中に立ち戻って見て、あの頃見ていた世界がいかに綺麗だったのか再認識する。
畦道に咲く菜の花。
青空に浮かぶ入道雲。
校庭の隅でひっそりと色づく紅葉。
居間の窓から見た一面の雪景色。
そして、夜の神社の軒下で燃える、小さな焚き火ーー
このキャンプ場で、小川の周りを飛び交うホタルを見て、僕と穂乃果はあの頃の2人に戻っていた。
「すげー」
それ以外の言葉が出なかった。
ホタルの光が、黒く染まった空気を斬る。複数の傷跡が作られては、すぐに消えていく。
焚き火から舞い上がる火の粉のようだ。
今なら、何でも言えるような気がした。
大人なら身に纏わなければならない、いくつものしがらみを脱ぎ捨て、あの頃の、あの火を見ていた頃の僕らのように。
「何か、あったんだろ?」
「え?」
「最近、元気ないじゃん」
「そうかな」
「ため息ばっかりついてる」
「ごめん」
「謝んなくていいよ。なんて言うか、力になりたいんだよ」
「慎三郎‥‥」
「何があったか、教えてくれないか? 僕だって、相談くらいはのれると思う」
「そっか、気遣ってくれてたんだ。ありがと‥‥」
穂乃果の目はホタルを見続けている。
少しの間、無言が生まれる。子供たちのはしゃぐ声が、遠くに聞こえる。風が吹いて、ホタルが揺れる。
「あのさ」
穂乃果はやっと言葉を見つけたようだった。
しかし、その言葉は、僕の予想していたものと大きくかけ離れていた。
「この前‥‥、元カレにさ、なんていうか、プロポーズされまして」
は?
え、今、何て?
「いや、大学時代に付き合ってた相手なんだけど、結婚を前提に、より戻さないかって、言われて‥‥」
僕は、何を言えば良かったのだろうか。
あまりにも想定外のその言葉に、僕は返す言葉をなくしていた。
頬に水滴が当たる。
水滴はどんどん勢いを増し、頬を、肩を、頭を重く濡らしていく。
「慎三郎! 雨! 雨がめちゃくちゃ降ってきた! 早くテントに戻ろう!」
穂乃果に促され、僕は駆け出した。
雨が降ってくれて良かったと、僕は心底思った。
言葉が思い付かず、ただこの場から逃げ出したかった僕に、雨は格好の逃げ口上を与えてくれたのだから。
ホタルはいつの間にか、いなくなっていた。