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第14話:3回目 ホタル・河原キャンプ③

「そりゃ、いきなりだし断ったよ。断ったけどさ」


 穂乃果ほのかは言う。

 小さな焚き火が、彼女の眼の中で揺れている。


「いずれにせよ、もうそろそろ、結婚ってものについて結論を出さなきゃいけない年齢なんだろうね」


 雨はしんしんと降り続いている。


 霧のような雨は、タープの表面を伝い地面へと流れる。時々行き場を失った雨水がタープの窪みに溜まり、小さな水溜りが作られ、耐えきれなくなって流れ落ちる。


 星は消え、ホタルは消え、小さな焚き火だけが残った。火の粉がタープに悪さをしないよう、薪を小枝ほどに小く割って、最低限の火力で炊いている。


 小さな火に、懐かしさが込み上げる。


 僕はあの火をーー夜の神社で火を見てからの穂乃果のことを、よく知らない。


 中学、高校、大学に進学し、社会人になって再開するまでの彼女の事を、僕は敢えて聞くことはしなかったし、何処か意図的に避けている部分があったと思う。


 それは子供の頃の穂乃果を、あの頃の関係性を僕が今でも求めていたからなのだろうか。


 でも、良くも悪くも、僕達は歳を重ねてしまう。


 いつまでも子供の頃のままではいられない。


 使うたびにテントの生地に染み込んでいく、焚き火の匂いや、草木の匂い、土の匂いのように、歳を重ねるにつれて色々な物が僕らに纏わりついてくる。それらを無かったものとして、お互いの関係性

を新品のまま維持するのは、多分不可能な事なのだろう。


「どんな人なの? その元彼って」


 だから、僕は尋ねた。お互いの身体に染みついた匂いを知ることが、関係性を更新する最初の一歩だと思ったから。 


 意外そうに、穂乃果は僕の方を見た。


 普段は冗談を言い合い、からかったり、からかわれたり、そんな同年代の幼馴染。

 しかし今、僕を見るその顔は、一人の大人の女性だった。


「取引先の課長なんだけど、この前偶然再開して」


「うん」


「ラーメン屋誘われて、食事して、その帰り道で、言われた。なんか別れてからも、私のことが忘れられなかったんだって。今は彼女もいないみたいで、そんななか偶然私に再開したから、一人で気分が盛り上がっちゃってんだよ」


「聞いていいのかわからんけど、その、なんで別れたの」


「あ、あー、えっと、なんて言うか、モテるんだよね、あいつ。顔もいいし、気遣えるから、結構女友達も多くて。それで私と付き合ってる頃も、女友達と二人で飲みにいくとか、頻繁にあって」


「なにそれ、浮気?」


「いや、本人は一線は引いてたらしいし、実際に浮気の証拠がある訳じゃないんだけど、なんか私の方が疲れちゃって」


「ああ」


「最終的に私がブチ切れて、喧嘩になって、そのまま別れた」


「あらら」


「あれ、こうやって話してると、私が一方的にやきもち焼いて、キレて、関係を終わらせたみたいじゃん? あれ?」


「いや、まぁ、お互い価値観の違い的な話じゃないの?」


「当たり障りない返答だね」


「経験が乏しいもんで、すいません」


「何言ってんのよ、高校ん時、後輩の女の子と歩いてるの、私見たことあるんだよ」


「あ、あれは部活の後輩で」


「付き合ってたんじゃないの?」


「それが、付き合い始めてからは、3週間で別れた」


「え? なんで?」


「二人で出かけると、毎回近所の模型店に入り浸るから、だって」


「あ、クマカワホビー店ね」


「付き合う前は我慢してたけど、付き合ってからも変わってくれないから、愛想尽かしたって」


慎三郎しんざぶろう、バカじゃん」


「バカです」


 それから僕達は、お互いの空白期間を埋めるように、疎遠になってから再開するまでの年月を語り合った。


 穂乃果の大学時代は、その元彼との日々が根底にあったようだった。二人でラーメン屋巡りにハマっていたこと、酔った勢いでよく喧嘩した事、二人徹夜で試験勉強を頑張った事。目を細めて、懐かしそうに話す穂乃果を見ていると、僕は彼女のこんな表情を引き出すことが出来る元彼とやらに対して、対抗心のようなものが沸き上がるのを感じていた。


 断ったと、言っていた。


 しかし、タイミングが違えば、おそらく穂乃果はそれを受け入れていたように思う。


 そのストッパーが何だったのか、僕にはわからない。


 ただ、僕とのこのキャンプが、彼女を繋ぎ止めているのだとしたら、それは、喜ばしい事なのかもしれない。


「そうだ! マシュマロ焼こうよ!」


 ビールからウイスキーに切り替わり、僕らは徐々に酔いの泥沼へと足を取られていく。

 クーラーボックスを開けた穂乃果は、ロック用のかち割り氷と一緒に、袋に入った大きなマシュマロを取り出してきた。

 串に刺して、1本を僕に手渡す。


 僕らは小さな焚き火にマシュマロを近付ける。近づけ過ぎると、一瞬マシュマロが炎に包まれた。


「あああ」


「下手だな、慎三郎は」


 一度火から離し、火がついていなかった側を焚き火に当てる。加減が難しい。焦って近付けると消し炭になるし、遠ざければマシュマロは微かに温まる程度だ。


 穂乃果は上手に焼いている。


 近すぎず、離れ過ぎず、一定の距離を保ったまま、マシュマロの全面に僅かな焼き目を入れている。


 距離感に戸惑う僕と、慎重に距離感を見定める穂乃果。


 真っ黒になってしまった僕のマシュマロに反し、ほんの少し焼き目がついただけの穂乃果のマシュマロだったが、中身は柔らかくトロトロに溶けていた。

 唇の端についたマシュマロまで舐めとり、ご満悦な様子。


「そろそろ、決断しなきゃいけない年齢なんだよ」


 僕らの話は過去から現代に向かって進んでいき、また元の場面へと一巡する。改めて、と言った様子で、再び穂乃果は呟く。

 ここまで缶ビール4本に、ウイスキーを3杯開けているため、その目はどこか虚で、振り続ける雨をぼんやりと眺めている。


 雨音で、僕達以外のすべての音がかき消されている。


 まるで僕達二人だけが、雨の中に取り残されたような気がした。


「結婚とか、するにしろ、しないにしろ、それはどちらでも良いんだけどさ。でも、そろそろ覚悟ってやつを持たなきゃならないんだろうね。結婚する覚悟、しない覚悟。私、もう若くないんだから」


「そっすね」


「あんただっておっさんでしょ。同い年なんだから」


 そして穂乃果は僕を見る。


「ねぇ、私、結婚した方がいいと思う?」


「お前、酔ってるだろ」


「酔ってない。真面目に色々考えてるの」


 その視線は、僕の目を通過し、心の底まで覗き込もうとするかのようだ。


 僕は口の中に残っているウイスキーの風味を、生唾と一緒に呑み込んだ。


「慎三郎は、どう思う?」


 雨音が強くなる。


 いや、強くなったように感じるのは、それ以外の音が全て取り払われてしまったからかもしれない。


 穂乃果が僕を見ている。


 何かを問いただすように。

 何かを待っているかのように。


 しかし、僕は、何も答えられなかった。


 やがて穂乃果の真剣な表情が徐々に崩れ、大きな欠伸を一つした。さっきまでの問い詰めるような眼光はいつの間にか薄れ、涙まじりの目尻を指先で擦っている。


「あー、やばい、寝そう」


「ほら、寝るならテント行けよ」


 雨の音が再び小さくなる。


 僕はほっとした気持ちと、何処か不完全燃焼な、後悔にも似た感情に戸惑いながらも、穂乃果をテントへと促した。


「火の後始末、お願いね」


 彼女はテントのファスナーを開け、フラフラと中へと消えていく。

 倒れ込む音と、ナイロン生地の衣擦れの音、そしてすぐに静かになった。


 一人残された僕は、足元の小枝を2本に折って、小さな焚き火に焼べた。

 このまま穂乃果の眠るテントへと向かってしまったら、マシュマロすら上手く焼けない僕は、決定的な何かを起こしてしまいそうな気がする。


 月の見えない夜は暗い。

 タープの下の、ランタンと焚き火の灯りが照らす世界から外に目を向けると、そこは何も見えない真の闇だ。

 僕はこのまま道を踏み外さず、脇道に逸れる事なく、歩いていけるのだろうか。


 ノイズのような雨音の中で、小枝の小さくはぜる音を聴いた。



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