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第15話:穂乃果は考える

 あの夜の、あの妙な雰囲気はなんだったのだろうか。


 先日のキャンプを思い出しながら、私ーー佐々木ささき穂乃果ほのかは馴染みの味の醤油ラーメンを一口啜った。


 会社から徒歩三分の距離にあるこの中華料理店は、終業後の夕食にちょくちょく利用させてもらっている。

 店構えは良くも悪くも古風な感じで、今だにカップ酒の瓶をコップがわりに使っているなど、余り若者受けするような店ではない。

 客層も定年退職したおじさんや、現場仕事に汗を流しているお兄さんが多く、みんな大盛りのチャーハンや中華丼を美味しそうに頬張っている。


 そんな中で私みたいない若い(?)女性が一人でラーメンを啜っている様はある種異様な光景なのだろうな、という自覚はある。でも入社してから何度も足を運んでいると、そういう感覚も麻痺してしまう。


 温いスープの中で若干伸びているこの太麺も、もしこれが初めて入った店だったら『なんだこの麺、やる気が感じられない』と批判から入ってしまうだろうが、この店に限っていえば普段通りの『安心感』に繋がるのだから不思議なものだ。


 夜のお洒落さん達や、意識の高い方々が、某コーヒーチェーンで知的活動をする様に、私は何か考えたい事があると決まってこの店を訪れる。


 この伸びたラーメンの様な自分の脳みそを、端から端まで味わい尽くすのに、この店の雰囲気は最適なのだ。


 さて、と私は再び過去に思考を巡らせる。


 あのキャンプの夜、慎三郎しんざぶろうと私は、お互い疎遠だった期間について語り合った。


 今まで意図して避けていた訳ではない。

 ただなんとなく、慎三郎との関係の中で、あいつにとって空白となっている期間の自分は、不要なものだと捉えていた。


 思えば私は常に、今の自分から逃避したいと考えていたのかもしれない。


 そして慎三郎のことを、会えば小学生時代の自分に戻れる、そんな避難場所として位置付けていたのかもしれない。


 でも、本当にそれだけなのだろうか。


 私が元彼に、結婚を視野に入れて関係修復を求められたと言った時、慎三郎は今まで見せたことのない表情を見せた。

 そして、それに気付いた私もまた、今まで感じたことのない気持ちを、慎三郎に対して感じてしまった。


『私は、結婚した方がいいのだろうか』


 そう尋ねた私は、一体どんな返事を期待していたのか、今思い出すとよくわからない。


 促して欲しかったのか?


 止めて欲しかったのか?


 長い沈黙の後、答えから逃げて先にテントに入った私だったが、もしその直後に慎三郎が入ってきたら、どうなっていたのだろう。

 何かが起きた時、私はそれを拒否しただろうか。


 あー、慎三郎相手に、何を考えているんだ私は。


 欲求不満なのだろうか。


 お酒に全ての責任を押し付けることはできる。でもそれは根本的な解決になりはしない。


 あの夜から二人の関係性は変わってしまった。


 それは揺るぎない事実なのだから。


「そんなつもりじゃなかったんだけどなぁ‥‥」そう呟いたところで、この店の喧騒の中では誰の耳にも届かず、奇異の目で見られることもない。


 ドキドキとか、ワクワクとか、キュンキュンとか‥‥


 私が慎三郎に求めていたのは、そういうんじゃない。


 この店みたいに、素の自分を曝け出しても咎められず、気にもされず、ただその雰囲気に身を委ねるだけで安心できるような、そういう何かだ。


 でも、それだけではダメなのだろうか。


 なんだか、慎三郎も、そして私自身ですら理解していない『心の奥底にいる私』も、『それだけ』ではないだろうと強く主張している気がする。


 あー、なんて面倒くさい人間なんだ、私は。


「あ、先輩もここで食べてたんですか?」


 突然声を掛けられて驚く。

 顔を上げると、川上がテーブルの横に立っていた。


 こんな風に考え事をしている時に声を掛けられると、なんていうか露出した内面に直に触れられたような気がして、無性にイライラする。


 でも、こんな騒がしい店で一人、ラーメンを食べながら考え事をしているなんて誰も思わないだろうから、そこを咎めるようなパワハラはしない。


「うん」頷きラーメンを啜る。


「相席いいですか?」


「かまわんよ」そう答えると、川上はニコニコしながら席に座り、メニューを眺め、店長渾身の意欲作と書かれた、お楽しみ定食なる物を頼んだ。


「この前、桑野さんとキャンプ行ったんですよね?」


「うん、行った」


「見れました? ホタル」


「まぁ、見れたっちゃ見れたんだけど、途中で雨降っちゃってさ」


「あー、やっぱり。でも雨のキャンプもいいですよね。キャンプって自由だから、色々やりたくなっちゃうじゃないですか。でもタープの中に足止めされてるっている不自由さも、逆に考えると、のんびりとコーヒーを淹れたりとか、じっくりカードゲームで遊ぶとか、そういうのに集中できますから、普段以上に贅沢に時間を使ってるっていう考え方も出来ますよね」


「なるほどねー。まぁ、雨音は心地よかったよ」


「‥‥先輩、何か悩んでます?」


「え、そんな事ないけど」


「いや、そんな風には見えませんよ。俺、嫁からも『鋭い』って言われますんで、そういう機微は見逃さないんですよ」


「さすが、モテる男は違うね」


「冗談はよしてくださいよ」


 そこで、料理が運ばれてくる。

 テーブルに並べられた料理を見て、私と川上は言葉を失う。


 店の雰囲気に似つかわしくない、謎の洋食。


「あの、これ何て料理ですか?」


 川上が料理を運んできた店のおかみさんに尋ねる。


「これね、ビーフストロガノフってんだって。最近主人がいろんな国の料理に凝り始めてねぇ」


「はぁ」


 古ぼけた定食屋で出される、ビーフストロガノフ。

 なんとも釈然としない様子で川上は頷いた。 


「いや、えっと、何の話でしたっけ?」気を取り直して川上は再び尋ねる「そうだ、先輩、何か悩んでないですか? 何かあったんですか?」


「うーん」少し考えて、私は川上の前のビーフストロガノフを指さす「そういう事」


「え?」川上は首を傾げる。


「思ってたんと違う」


「はぁ?」完全に理解不能と言った様子。これ以上尋ねても無駄だと諦めたのか「いただきます」と呟くとスプーンで目の前のビーフストガノフをすくい

口に入れた。


 川上の目が見開く。


「先輩」


「ん、何?」


「確かに、思ってたのと違いますけど」うんうんと、何度も頷く「これ、めちゃくちゃ美味いですよ」


「あ、そう」


 図らずしも、川上が私の悩みに対する『答え』を言っている様な気がして、何だか複雑な気分になった。



   △



 僕ーー桑野慎三郎(くわのしんざぶろう)はパソコンの画面を睨みつける。

 検索エンジンを立ち上げ、思いつくキーワードを入力。


『幼馴染 結婚』


『元彼 結婚』


『幼馴染 交際 方法』


『アラサー 女性 結婚感』


『女性 元彼 略奪』 


 ひとしきり検索した後、有益な情報は何も得られず、途方に暮れる。


 ベッドに寝転がると、スマホを取り出しメッセージを送る。


『次のキャンプ、いつ行く?』


 返事を待ちながら、僕は少しだけ眠った。




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