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2月 3

 兼松は訊いてくる。


「あんな沢山の人を従えて、大きなホールで歌うなんて、緊張しないんですか?」

「始まる前はしますよ、でも兼松先生は現役時代、四方八方からプレーを見られてたんでしょう? そのほうが緊張しそうです、基本我々は前にしかお客さんはいないので」


 兼松は元バレーボールの選手である。ほんの短い期間だったと本人は言うが、セッターとして日本代表を狙える位置にいたこともあるらしかった。

 三喜雄は感じたままを述べただけだが、兼松は嬉しげに軽く三喜雄を覗き込んでくる。


「俺も緊張は試合が始まるまででしたよ、歌うのとバレーボールは似てるのかな?」

「お客さんがいる時は、音楽とスポーツに似てる部分もあるかもしれませんね……観ていただいてありがとうございます、出演してる学生さんたちに代わって礼を言います」


 三喜雄の言葉に兼松がきょとんとしたので、説明しておく。


「私たち偉そうに前で歌ってますけど、あの曲の主役は合唱ですから」


 昨年の年末、三喜雄は北海道内の大学の合唱連盟の選抜メンバーと一緒に、ヴェルディの「レクイエム」を札幌のホールで歌った。予想外に高い評価を得る良い演奏になり、ソリストとしてゲスト出演した三喜雄もそのおこぼれに預かっている。学生たちがコンサート当日に同時配信した動画は、抜粋したものを無料で見ることができ、今でも地味に再生数を伸ばしているのだ。


「なるほど……いやまあ、俺にはちょっと難しかったんですけど、片山先生はこういうことをしてるんだなぁと……」


 兼松は頷き、何故か満足そうに自分の机に戻っていった。彼の反応は普段クラシックを聴かない人なら当然なので、三喜雄は興味を持ってくれるだけで上等だと思った。

 笹森がこそっと話しかけてくる。


「どうしたんだろうな、脳筋ピープルにヴェルディのレクイエムは難し過ぎるのに」

「うーん、宗教曲の中ではわかりやすいほうじゃないですかね」


 三喜雄もこそっと答えると、いひひ、と笹森は意地の悪い笑いを洩らす。彼の妻は歌手、娘はヴァイオリンを習っている音楽一家なので、年末はみんなで配信をオンタイムで見てくれていた。

 三喜雄は高校生の頃にグリークラブに入って歌い始め、地元の教育大学の芸術課程音楽コースに進学したため、ずっとクラシック寄りの音楽が好きな者が身近にいた。だから三喜雄がレクイエムのソロで故郷に錦を飾ると聞いて、沢山の友人知人が観に来てくれ、遠くに住む人は配信を見てくれた。しかしそれが当たり前ではないことを、留学から戻り「普通の」仕事を始めてから、痛いほど感じている。

 日本においてクラシック音楽は、一部の人間が偏愛する特殊なジャンルだ。だから日本のクラシックの演奏家は、ヨーロッパの同業者に比べると演奏会収入が少なく生活も不安定で、演奏する以前に食い扶持に神経を砕かないといけないことが多い。その多くは、低報酬でイベントの依頼演奏を引き受け、自宅や音楽教室で少人数あるいは個人指導をし、学生を含むアマチュアの音楽団体のトレーナーなどを掛け持ちするのだ。音楽家はフィーリング重視ピープルなので、結婚相手は同業者になりがちだが、子どもを持つ将来を考える場合はやや不安なのが現実である(どちらかの実家が太い場合は安泰だ)。

 三喜雄はそのことを理解していたつもりなので、教職をしっかり取った。非常勤でも教員として働けているため、契約を更新してもらえる限りは安泰である。しかしまともな定収入がある昼間勤務の仕事に就くと、たとえそれが音楽に多少関係のあるものであっても、思う存分練習の時間が取れなくなるというジレンマに陥る。

 笹森と並んでいろいろな事務的処理をしている間に時間が経ち、4限が終わるチャイムが鳴った。この部屋を使う科目専任講師は給食にありつけないので、その場にいる全員が手弁当や購入してきた弁当を机に出す。

 5限は3年生のクラスの授業である。三喜雄は箸を動かしながら、何からやろうかなと脳内で段取りをし始めた。少なくとも三喜雄は、就業前に想像していたよりも子どもたちに教えるのが楽しいので、我慢しかねるような仕事のストレスは今のところ無いのだった。



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