後奏の最後の和音が響き、三喜雄はほっと身体から息を抜く。指揮者の腕が下がると、ギャラリーからぱらぱらと拍手が起きた。清水は三喜雄を見た。
「片山くん、どう?」
「はい、テンポはあれでいいです」
録音は問題無いと、担当者から手が挙がった。演奏に手応えが無かったわけではないが、三喜雄としては出だしが少しもたついたかなという感じがある。CMで使うのはアリアの中のほんの一部なので、録り直しを求めるほどではないかもしれない。
「もうちょいノリが良くてもいいかな」
さすが清水は、三喜雄の微かな迷いに気づいていた。
「やっぱりそう思います?」
「うん、ちょっと生真面目過ぎると言えなくもない」
清水と三喜雄さえOKすればいい雰囲気が醸し出されたが、その時前方から声がした。
「いいですか?」
その場にいた全員が、よく通る低い声のしたほうに顔を向けた。三喜雄は声の出所を確認して、どきりとする。
「片山さん、もう少しだけ軽やかに歌ってもらえますか?」
意見を述べたのは、フォーゲルベッカーのドイツ人のCOOだった。流暢な日本語だったので、演者の間に驚きの空気が静かに広がる。
名指しでダメ出しされてしまった三喜雄は、動揺するほどではなかったものの、何語で返事すべきなのか、どうでもいいことで迷った。日本語できるのか、と訊きたくなる。7年前に彼が三喜雄に向かって、ドイツ語ができるのかと言ったように。
「……わかりました」
三喜雄は日本語で答えた。ノア・カレンバウアーは小さく頷く。
「オーケストラの皆さんはとても良いと思います……マエストロ、よろしくお願いします」
「ありがとうございます、カレンバウアーさん」
清水は答えてから、三喜雄に小さく言う。
「ほんのちょっとだけテンポ上げてみる? それだけでも変わると思う」
「すみません、どっちにしろさっきは少し固かったと思います」
三喜雄は深呼吸をして、頭の中の雑念をひとつずつ消していく。視界に入るスタンドマイク、オケの練習ホールにしては多すぎるギャラリー、日本語で話すカレンバウアー。ホールで生で聴かせようが、録音してCMに使われようが、歌の内容に変わりは無い。鳥を捕まえて売り生計を立てる、ちょっとお人好しでお調子者の男が、明るく自己紹介するのだ。
三喜雄が前を見据えると、指揮者のタクトが揺れた。朗らかで調子が良く、それでいて美しい前奏が始まる。モーツァルトの最晩年の作品であるこのオペラは、物語はやや破綻気味だが楽曲はどれも印象的で美しく、三喜雄は大好きである。
パパゲーノは『魔笛』というオペラの中で、唯一の完璧な陽性キャラだ。登場するだけで観客の顔をほころばせなくてはいけない。三喜雄は軽く意識を腰から下に向けた。
「『俺は鳥刺しだ、いつも陽気にさあ、ほぅら! 国じゅうの若い奴から年寄りまで、俺を知らない者はいないのさ』」
上手く滑り出せた実感があった。心なしか、後ろでメロディを追ってくれる管楽器の音も、さっきより弾んで聴こえる。
「『おとりの使い方も知ってるし、笛の扱いは名人級……』」
ピッコロの5つの音が駆け上がる。舞台ならば、パパゲーノ役の歌手が小さな笛を本当に吹くのだが、7年前は案外上手く鳴らせなくて苦労したことを思い出す。
「『俺がいつだって楽しく陽気でいられるのは、全ての鳥が俺のものだから』」
パパゲーノはワインと女の子が大好きで、妻になる女性を見つけてのんびり楽しく暮らしたいと願っている。ところが王子タミーノと共に、悪い奴に攫われたパミーナ姫を助ける旅に出る羽目になってしまう。嘘をついたり、試練を投げ出そうとしたりする困った一面も見せるのだが、ただのクズキャラにならないよう演じる力量が、歌手には必要だ。
「『その子が俺の隣りで横になったら、俺は彼女を子どものように揺らして寝かしつけてやろう』」